【沙英からヒロさん(ひだまりスケッチ:二次創作その3)】
小説〜ストーリー一覧へ戻る     コミック「ひだまりスケッチ」紹介もあります
沙英からヒロさん(ひだまりスケッチ二次創作3)

                                                      陽ノ下光一


「うーん……たかだか数文字……なのになぁ」
 紙の上でシャーペンの先を何度も踊らせては、その都度溜息がもれる。部屋の主は、スレンダーで長身、メガネが理知的な雰囲気を出している少女。紙には「進路調査票」と印字されていた。
「沙英―、ごはん出来たけど、どう?」
 ドアの向こうから、優しくおっとりした声がかけられる。彼女の隣室、101号室のヒロだ。
「あっ、うん、ありがと。すぐ行くよー」
 言って彼女は、進路を決めるという目の前の「宿題」を一旦脇に置く事にして立ち上がった。
「今日は献立なにー?」
 102号室のドアが閉じられた。今日も「進路調査票」は白紙のまま机の上である。
 沙英が住むアパート「ひだまり荘」は、道路を挟んだ向こう側に「私立やまぶき高校」があるロケーションである。高校には美術科があり、彼女もその生徒である。
 アパートは全6室で、1年から3年生まで各2名ずつが親元を離れて生活している。互いに足りないものを補う形で、自然と家族的な雰囲気の繋がりを持つようになっていた。その一方、ひだまり荘に住んでいると話すと、「あのひだまり荘」と言われるほど知名度が高い。その意味するところは、「奇人率が高い」というものだ。
 沙英と隣室のヒロは互いに3年生であり、他4名の下級生からは慕われ、何かと頼りにされていた。
 美術科の生徒なのだから、普通科の生徒に比べれば進路の悩みは多くは無い……というのが、おそらく一般的な見解だろう。美術に関する専門学校なり、大学なりを志すのが大多数。高校の段階で、自らの専門とするものを決めた子たちが多いのだから、当然そう思われるはずだ。
 ところが、沙英に関しては少し事情が異なっていた。
「ふふ、今月号の沙英のお話も、素敵だったわよ」
 食事の最中にそう言ったのは、沙英の正面に座る、癖の強い髪を左右でお団子にしている少女。表情も声も母性的な優しさに満ちている。
「そ、そう。あ、ありがとう」
 理知的に見える少女だが、沙英は誉められる事が得意ではないのか、照れている様子。彼女は高校生でありながら、プロの小説家であり、橘文というペンネームで活躍している。
 その小説家であるという点が、彼女の進路について悩みを投げかけていた。
「甘い恋愛話だったわね〜。沙英の実体験かしら?」
「そそ、そう。うん、じ、実体験無しには書けないというかさー、あの描写は」
 慌てふためいて応える沙英に、ヒロはくすりと笑っている。沙英のところには不思議と恋愛物で執筆依頼が来るのだが、いかんせん沙英には異性との交際経験などなく、実態はただの耳年増である。強がりな性格なのか、周囲から恋愛に関する話を振られると、交際経験豊富であるかのように語ってしまうのだが、なにせ本人が正直な性格のため、態度で嘘がバレバレなのである。
「と、今日さー。ゆのと宮古、それに乃莉も来て、昔のノート見せたり、小論文の話をしてたよ」
 話題をごまかすというわけでもないが、沙英は、その日の後輩達との出来事をヒロに対して語り始めた。3年生というだけではなく、彼女がプロの小説家という事もあるのか、後輩たちは「大人でかっこいい頼れる人」と、何かと沙英の下を訪ねてくるのだ。
 沙英自身も、後輩たちに対しては出来るだけ「お姉さん」ぶっており、頼りになる人間を演じている。ただ、ヒロの前では自然体になれるのか、彼女と2人きりの時だけは「普通の高校3年生の女の子」になれるのだ。
「へぇ〜、じゃあ今日は、ずっとお勉強会だったのね♪」
「ん、終始ゆるっとした感じだったけどねー」
 沙英自身が学業と小説家の仕事で多忙を極めるため、彼女は隣室のヒロの厚意に甘える事が非常に多い。この日のように、夕食を作ってもらい、一緒に食べる事が多い。また、身の回りの事に関しても、ヒロの方が献身的な位に色々してくれる事が多く、健康面まで気を遣ってくれている。
 そのようなものだから、周囲や後輩達が抱いている、彼女達の関係性は「夫婦。沙英さんが夫で、ヒロさんが妻」というものだ。
 ともかく、そのために沙英の料理の腕前は、1人暮らしであるにも関わらず、それ程高いレベルではない。
 以前、珍しく、ヒロと喧嘩をした際に、沙英が仲直りの印に、ヒロの分の弁当も作って来たことがあるのだが、それを見た後輩の宮古からは揶揄されたものだ。
「せっかく仲直りしたのに、またケンカになっちゃうよー?」
クラスメート曰く「上手くないけど、下手でもないよね」レベルなのだそうだ。
 これらの事は、この2人が単なる友人や、隣室同士、クラスメートであるという関係性を越えて、固く良好な人間関係を築いている事の証である。
 そういうわけで、沙英はヒロに対しては、後輩達に接する時とは異なり、気取らずにいる事が出来た。
「ゆの達には勉強とか、色々頼ってもらってるけど……私自身、自分の進路とか決めかねてるんだよね。みんなが思うほどには、かっこよくもないんだよね、私」
 後輩たちに対しては見せない本音、弱音をヒロに対してだけは吐き出すことが出来た。ヒロはこういう時、柔和な笑顔でそっと背中を押してくれるのだ。
「沙英の悩みは素敵な悩みだもの。そんな沙英も含めて、みんなから頼られているのよ」
 沙英は思わず頬をかいてしまった。自分が2年生だった時にも、同じようなやり取りをした記憶がよみがえったからである。


 自分が2年生だった時、後輩のゆのを街中の書店で見かけて、声をかけた時の出来事だ。
「沙英さんは、何探しに来たんですか?」
 と、ゆのに聞かれた。その日は、沙英の作品が載る月だったので、こう応えた。
「んー、文庫の新刊……と……」
 そこでいったん言い淀んで、続けた。
「……っとね、赤本……見に来たんだ」
「赤……ちゃんの本?」
 ゆのが首を傾げて聞き返すと、沙英は赤くなって思わず声を張り上げてしまった。
「ちっ……がう!」
 沙英はとにかく色恋沙汰が絡む出来事については、必要以上に神経質になってしまうようだった。
 その後、ゆのを誘って喫茶店で雑談をした。お洒落な店で、ゆのは最初、緊張した面持ちだったが、沙英は「ここのお店、好きなんだ」と言って、エスコートしてみせた。
「……あの、さっき買ってた参考書って……文系のでしたよね? 沙英さん、文系の大学に行くんですか?」
 ゆのはエスプレッソの小さな器に砂糖を2本も注ぎ込みながら、そう尋ねてきた。尋ねられた沙英は、少し困り顔でこう応えた。
「実は美術系目指すか、文系目指すか悩んでるんだよね。そろそろ時期的に悩んでる場合じゃないんだけど……」
 言い淀んだところで、ゆのからの言葉が沙英の胸にざっくりと刺さった。
「……甘い……甘すぎです」
「だっ、だよね!」
 ゆのは単にエスプレッソに砂糖を入れすぎたため、口にして甘いと言ったのだが、沙英はタイミング的に別の意味で捉えてしまった。
 沙英が進路で悩んでいる理由は、実に悩ましいものであった。それは、彼女がプロの小説家だからだ。
「……文系に進むべきだってことは、わかってるんだ」
 彼女はゆのにそう応えた。沙英は元々、自分の書いた小説には、自分で挿絵を描きたい。自分の表現したいものは、自分でしか表現できないから……と言う理由で、やまぶき高校の美術科に入った。2年生になってからの選択強化授業も「平面」を選んでいるのはそのためだ。
 ただ、美術を勉強する内に、その面白さも分かってしまい、文系大学か美術系大学か……どちらに進むべきか、勉強すればするほど、仕事をすればするほどに悩みが深まってしまっていた。
「どっちも半端になるから、良くないってわかってるんだけど、どっちも選びたくて……」
 美術も本格的に勉強したいし、小説家として本格的に文系の勉強も大学で行いたい。彼女は2年生の時から、このジレンマにさいなまれていた。
「だいじょうぶです! 要は『二兎追う者は、一兎も得ず』ってお話ですよね!」
「う!」
 後輩にズバリ言いあてられて、思わず頭を撃ち抜かれた気分になった。
「お姉さん気取りでエスコートしたのに、情けないとこみせちゃった」
 その日の夜、いつものようにヒロの部屋を訪ねて、沙英は後輩とのやり取りに付いて語った。ヒロはその時、彼女の背中をしっかり支えてくれた。
「情けなくないわよ。沙英の悩みは大事で素敵な悩みだもの。ゆのさんも、そう感じたと思うわよ?」


 そんな記憶が昨日のようによみがえる。あの時は2年生だったが、今は3年生。進路はもう決めなくてはならない。
 美術系大学へ進んで、もっと美術を極めるか。それとも、文系大学へ進んで、本業である小説家としての自分を研鑽すべきなのか。ゆのに悩みを話した時のように、今でも同じ事で悩んでいた。
 今日も、ヒロは1年前のように自分の背中をそっと押してくれていた。
「文系か美術か……あれから1年経つのに、まだ決められないなあ」
 そう漏らした沙英の前に、ヒロがコーヒーを出してくれた。砂糖とミルク入りの甘いコーヒーである。
「ヒロー。ヒロはもう決めた?」
 沙英は目の前の親友にそう尋ねた。進路調査票を出さなくてはならないのは、彼女も同じことだ。
「私は……美大かな」
「そっか、そうだよねー」
 美術科に入った以上、ほとんどの生徒の進路は決まっているも同然だ。自分の好きな美術をさらに高いレベルに持っていきたい……そうであるはずだから。
「美大に行くか、文系の大学に行くか……もう決めないといけないのになー」
 ヒロが淹れてくれた甘いコーヒーを口にして、ため息。もう高校生活の残りは長くない。そろそろ決断の時だ。
 にも関わらず、彼女の悩みはなかなか尽きなかった。小説家として文章を書く面白さはよく知っている。でも、絵を描く楽しさを高校で知ってしまった。どの進路が最も自分に相応しいのか。
「うーん……文系を選ぶべきなのは、わかってるんだよね……」
 沙英が思わず漏らした言葉に、ヒロの顔が一瞬曇った。
「ん? ヒロ、どうかした?」
「あ、ううん。何でもない」
 沙英が聞くと、ヒロはいつも通りの笑顔を浮かべている。沙英は進路について、あれこれ思いを巡らせている内に、もう1つの事にも気が付いた。
 文系大学を選べば、ヒロと異なる進路になるという事だ。
 そう思うと、さらにもう1つの事に気が付いた。
「3年生か……」
 沙英は思わずつぶやいた。
 夏の陽気に変わりつつある今。修学旅行も終わり、やまぶき高校での生活は、終わりにさしかかろうとしている。それは同時に、この「ひだまり荘」を出るという事であり、後輩達やヒロとの生活にも終わりが訪れるという事だ。
 ある意味、進路の悩みと同レベルに、これは悩ましい事でもあったかもしれない。みんなが楽しく過ごせる空間は、その場では永遠のように思えて、実はそうではない。そういう事だ。進路の決断とは、そういうものも含めたものなのだ。
 次へと踏み出すステップには、出会いがあれば別れもあるのだ。
「大丈夫よ、沙英」
 思い悩んでいるところに、ヒロの声がかけられた。その表情は、かすかな陰りもあるように見える。そうだ、ヒロだって私と同じような思いを持っているはずなんだ。
 でも、沙英は自らの進路を決めかねていると同時に、1つの真実らしい思いだけはあった。
「そうだね、うん。ありがと、ヒロ」
 この親友との関係や、後輩達との関係は、きっと、高校を出た後も続くのではないかという事。形は変わっても、より固い何かで繋がり続けるだろうという確信を持っていた。
「ごちそうさま。おいしかった♪ 流しに置いていい?」
「ありがと。適当に重ねちゃって」
 沙英が2人分の食器を流しへと運ぶと、途中の冷蔵庫の張り紙が目に入った。ヒロの字でメモ書きがされている。
「……ヒロの字って、優しくていい字だよね」
「えっ? 何? 急に……」
 照れる様なヒロの声が聞こえる。字は体を表すと言うけれど、ヒロのそれはやっぱり彼女の優しさをよく表しているように、沙英には思えた。
 沙英は思う。ヒロみたいな優しくて思いやりのある人が、教師だったらと。将来彼女がそのような進路を選択したら、ヒロが自分の背中を優しく押してくれていたように、自分も押してあげようと思った。
「ん、見たまんま言っただけだよ」
「もう、沙英ったら……お世辞言っちゃって」
 ヒロと話をしていると、やっぱりこの時間が永遠のように思えてしまう。こうしてまた、今日も沙英は進路調査票に、この先の記載を先延ばししてしまうのだった。
 遠くない先に決めてしまうのだから、今しか過ごせない、この親友との空間を共有する事の方が、大切に思える沙英であった。

【完】

【沙英からヒロさん(ひだまりスケッチ:二次創作その3)】
小説〜ストーリー一覧へ戻る     コミック「ひだまりスケッチ」紹介もあります

TOPへ戻る