【おかえりなさい】 - まとめ読み(全13話完結) -
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おかえりなさい
                                                      陽ノ下光一

 第1話

『今日からここが君の家だよ。おかえりなさい』




 ジリリリリリリリ!
「…………っ…………後……5ふん…………」
 二度寝ほど心地良いものもないのだが、けたたましく鳴り響くアラームは思考をどうしても現実に引き戻してくれる。
「…………っと、全然思いだせねえなあ……」
 大きく伸びをして身体に血を巡らせると、寒く乾いた部屋の空気が身に染みる。
「うー…………さびー…………」
 1DK角部屋に白の壁紙。最低限の生活用具しかない部屋はまさに寒々しい。男の独り暮らしなんてそんなものと言えばそんなもの。
「えっと、今日の予定は……」
 枕元の手帳をパラパラめくれば、本日のノルマと営業先が朝から晩まで。
「あー、朝からメンドくせえ。あそこのハゲ部長毎度毎度うるさいんだよなあ」
 面倒臭い仕事なんてすぐにでも辞めたいものだが、それでは部屋も追い出され生活もできず。
 健康的な生活と最低限度の生活水準、文化的な生活を営む権利というのは憲法の記載ではなかったか。
 とかく世は世知辛いもので、朝から深夜まで将来の不安を抱えながら必死で働いてボロ雑巾。
 それとも、最低限の生活も営めないような低賃金のスパイラルへ御入会。
 憲法上の表記とは別に、現実は容赦なく穴ばかりのセーフティーネット。大多数の人を絶望の淵に追いやり続ける。
「あー、カップ麺切らしてんじゃん」
 空腹を訴えても、棚は空っぽ。ヤカンのお湯がピポーと蒸気を吹きあげたのに、入れる先が無いという不運な朝。コンビニに寄らなかった昨夜の不手際をボヤきながら、スーツに袖を通す。
「スーパーの開いてる時間に帰りてえなあ」
 ボヤけど仕事は減らない。仕事は不景気ほど余計に忙しい。仕事総量が8割になると、人員は5割になる不思議な算数の世界。
 仕事の目的も展望もなく、ただその日の部屋と食事のために、『国民にはキンローとノーゼイの義務がある』とやらをこなすのが、現在の日本人というやつだ。
「行ってきまーす」
 誰もいない部屋にギー、バタンという音。カツカツと響く靴音は遠くなっていった。


「うん。だからね、このご時世だしさ、ね、お互い様でしょ? うん。うん。よく分かるよ。分かるけど、ウチも無い袖は振れないからさあ」
 日中ともなれば、日当たりの良さだけで人気を博す公園ベンチは格好の食事場で、そこかしこのスーツ姿がパンの袋を開けている。
「あのクソハゲが! な〜にが、よく分かるよ。だ。テメーの言い値が通ったら、原価割れじゃねえかよ!」
 八つ当たり気味に袋を破いたせいで、プリントされた耳長の可愛いウサギが真っ二つの惨劇。中からのぞくは、甘い生クリームが詰まったロールケーキ。
「は〜……」
 ため息交じりに思わず、疲れがぐ〜っと抜けるような甘さが脳内に入り込む。スイーツ男子が流行る理由は、ストレス社会のせいだと、しみじみ思わざるを得ない。
 ピリリリリリ
 今度は本物のため息をついて、胸ポケから携帯を取り出す。サラリーマンには昼休みというものも無いらしい。
「北村です。お疲れ様です。あ、いえ、昼ならもうとりましたので、ええ、はい」
 言って、ぐしゃりと潰した袋を近くの屑カゴに投げ入れる。そのつもりが、風で舞い上がってカゴの向こう側へと着陸した。
「はい、その件は本当に申し訳ありません」
 電話口から聞こえる怒鳴り声。こちらも着陸先はよろしくなさげ。
「はい。先方には朝方出向いたのですが、はい。ええ」
 立ちあがって拾おうとした先ほどの袋は、手の触れるかという位置でまたも空高く舞い上がってしまった。
 つかみ損ねた手が空を握る。
「定時前には帰社しますので、ええ、その時に見積もりを提出します。はい、はい」
 頭を下げる事は本日何度目か。携帯を切ると、思わず地面へと長い息が漏れ出た。


 夕方に会社へ戻ると、まるで弾丸の嵐のようなお出迎えが待ってくれていた。
「北村君! これじゃ利益無いんだよ。分かる? り・え・きが出ないの! 北村君は算数は出来たんだっけ? ええ? 原価割れって国語辞典引いてみな? 大学出ってのは辞書は引けるんだっけか? ああ、短大出だっけ? 相手が何と言おうと、会社のために利益を持ってくるのが営業の義務だろ? 君は何のために会社に雇ってもらっているの? んん? 子供だってモットマシなおつかいが出来ると思わない? なあ?」
 どこで息継ぎをしているのかと思わせるほどの言葉の嵐が、眼前の黒ぶち眼鏡から発せられる。
「ボクらがね、バブルの頃って言うのはねえ、それはもう毎晩遅くまで営業努力を重ねたもんさ。だからあの頃は景気も良かったし、ボク達も鍛えられたもんだ。まったく今の若い営業っていうのは、甘えしか知らない。ホント何でまともな契約もとれないのかねえ?」
 黒ぶち眼鏡は、今は去りし20年前に言葉の製造方法を鍛えられたためか、とにかく量産がうまい。まさに薄利多売というやつなのか、薄い言葉でも投げられ続ければ殺意すら抱きたくなるという代物だ。
「いつも迷惑ばかりおかけして、申し訳ありません」
 こうした言葉を大量生産された場合、基本的な日本人の行動は謝罪の一言に尽きる。誰しも自分の帰る家は失いたくないものだ。
 こうして今日も今日とて、定時以降に見積もりを上げ、その他様々な事務をこなすこととなる。疲れた身を引きずって愛すべき寒々しいマイルームへ戻るのは深夜となるわけだ。


「あ〜、そっか。今日はカップ麺買わないとなあ」
 腕時計を見れば深夜0時。スーパーが開いてさえいれば、部屋のガスコンロもより活躍出来ように。使われるはヤカンの火ばかり。
 コンビニの24時間営業体制のせいで、深夜残業が標準化されてしまうのか。それとも、深夜残業が標準化されたせいで、コンビニは24時間営業化してしまったのか。
 つまりは、ヨーロッパなら暴動すら起きかねない労働条件で、この国はかろうじて先進国と呼ばれるようだ。
「いらっしゃいませー」
 こんな時間のコンビニは基本的にワンオペ。1人勤務の店というのは、強盗の危険性を高めるそうだ。犯罪心理学者が牛丼店で強盗が多い理由として言っていた。この国は色んな意味で犯罪大国だと思ってしまう。
 もし自分が強盗なら、簡単に出来てしまいそうだと思えてしまう。
「オレは善良な一般市民だからなあ」
 そんな事をつぶやきながら、カップ麺を買い物カゴにドサドサ入れていく。毎朝毎晩、カップ麺とは実に便利なものだ。


「ただいまー」
 誰もいない部屋に思わずしてしまう挨拶。部屋ですることと言えば、お湯を沸かしてカップ麺を食べる事くらい。
 食べてシャワーを浴びれば時計の針は深夜1時過ぎ。
 こういう生活で人間の身体は何歳まで持つのだろうか。高齢化社会と言われるが、50年後には平均寿命が下がって、老人が減って社会保障費減ってバンザイと政治家が言う世の中になっているのじゃないだろうか。
 そんな事を思いながら、ノートPCをカタカタ弄る。文化的な事に無線LANでネットもできる仕様だ。
 メーラーには、仕事に関する業務情報がぎっちり。結局寝ている時間以外は24時間勤務と変わりない。ノートPCがネットと繋がっているおかげで、常に仕事から解放されないというわけだ。
 いつものように事務的に、流し読みしてはゴミ箱にポイポイ放り込んでいく。10通も読むうちに、ウトウトしてくるもので、大体普段はそうして眠りにつくのが常だ。
「お、先生からだ」
 北村が開いたメールの件名は『お元気ですか?』。送り主は坂本先生。
「ふ〜ん、そっか。よかったよかった……」
 北村はつぶやきながら、そのまま寝オチ。エアコン消さないと電気代が……というつぶやきを漏らすが、すぐに睡魔が勝利を収めてしまった。


 忙しい年末を終えると、街は一気に静まり返る。年末年始というのは、皆がこぞって実家と呼ばれる場所へ帰るらしい。
 そんな中で北村の年末と言えば、ノートPCでお笑い番組を見ながら、カップ蕎麦をすするものだ。
 日付が変わり新年になると、一斉にどの番組でも『明けましておめでとうございます!』という毎年恒例の言葉が躍り出る。
 年が変わったからといって、何も変わるわけではないのに、人間は奇妙な生き物らしい。これだけでお祭り騒ぎだ。
「ん?」
 ノートPCの隅っこに、新着メールの通知。メーラーを開けてみれば、そこにも『明けましておめでとう』の文字が。
「…………新年帰ってきてはどうですか……か」
 そこに書かれていた文面は、自分を気遣う言葉とたまには会いに来ないかというものだった。
「ふ〜む、どうすっかねえ」
 若者の新年といえば色々予定もあるというものだ。初詣に……うん、初詣。他にする予定も思い浮かばないのは何とも悲しいものだ。
「久々に帰ってみるかねえ、我が家にでも」
 充電中だった携帯を開いてみると、随分前の時間帯に何件かの着信履歴と留守電。何度も出ないのでメールを送ってきていたのだろうか。
 既に深夜になっていたので、メールに帰省する旨を書いて返信をしておいた。


 第2話


 電車を乗り継いで片道2時間。隣県の中心都市に北村の言う我が家はある。
 珍しく雪で始まった新年のためか、人通りの少ない元日は雪が残されまぶしい光景だ。
 北村が我が家をのぞくと、広い庭には無数の足跡。各所に作られた雪だるまが色とりどりのマフラーを装備していた。
「あ、しゅんちゃんだー!」
「ホントだ、しゅん兄ちゃんだー!」
「おっす、ガキ共。新年明けましておめでとう」
「おめでとー!!」
 わらわらと家から出てきた子どもたちが、北村の周りを囲んでお帰りの大合唱。北村がそれぞれの頭をグシャグシャ撫で回していると、年老いた男性が外へ出てきた。
「おお、俊一君。よく帰ってきたね」
「はい。お久しぶりです、坂本先生」
 柔和な顔立ちの彼は、十字を切って『主よ。俊一と会える喜びをありがとうございます』と頭を下げた。
「とにかく外は寒いだろう。中に入って。さあ、みんなも中に入ろう」
「はーい、神父様」
 わーっと走って戻る子供たちに、『走っては危ないでしょう』と中で叱る女性の声が聞こえる。
「俊一君、本当にありがとう。子供たちも喜んでいるんだ」
「大した事でもないですよ。ボールが無いとサッカーもできないですからねえ」
「いやいや、ボールではなくて君が来てくれる事を子供たちは喜んでいるんだよ」
 坂本の柔和な顔立ちでそう言われると、おもわず頬をかきたくなってしまう。なんともこそばゆいけど、悪い気分にはならない。
「しゅん兄! サッカーボールありがとー」
「ん? サッカーもいいけど、ちゃんと家の手伝いもしてるんだろうなあ?」
「してるよー。先生に怒られちゃうもん」
「怒られるからじゃねえだろ。たく、家族なんだから手伝うのは当たり前だっつーの」
「ふふ。俊一君のおかげで、子供たちがサッカー出来るって。毎日ボールを追いかけていてねえ」
 坂本同様、柔和な笑みが優しさを表しているのは、シスターの河原先生。こちらも北村が歳を取った分、随分と歳をとっていた。
「そういえば、今年は他に誰か帰ってるんですか?」
「昨日まで、まー兄ときー姉ちゃんがいたんだよー」
 絵本を読んでもらったのーと、楽しそうに女の子が教えてくれた。
「明日夜には、孝太君と奈々子君が帰って来るよ」
「あー、園を出る直前には、屈指のバカップルになっていましたね」
「お子さんも一緒らしいわよ」
「そういや、子供が出来たって夏頃に言ってました」
 うんうんと、まるで我が孫が見られるかのように頷く神父とシスター。
「3日には美月君も帰って来るね」
「えっと……美月……」
 園から巣立った大勢の子どもたち、美月っていうと誰だったか……思い出せないでいる北村に、
「ほら、煙草が手放せない」
 シスターがクスッと昔を思い出してそう言うと、
「あー、よく河原先生に怒られていましたね。黒崎ですか。アイツも帰って来るんだ」




「何よ! いいでしょ、私が吸いたいから吸ってるの! アンタに説教される筋合いないんだけど」
 ゆるくウェーブのかかった短めの黒髪を不機嫌そうにかきながら、オレをにらみつける黒崎。
「中学生が吸うもんじゃねえだろ!」
 オレが黒崎から取り上げた煙草を足でグシグシ潰すと、黒崎は一層不機嫌になって声を荒げた。
「ふん。たかが私より2歳年上なだけで、何なの? アンタ私のお兄ちゃんでも気取ってるの?」
「たりめーだろ! 家族なんだっつーの」
「私は別にここに来たくて来たんじゃないんだけど。そもそも血も繋がってないアンタが家族? はあ、何バカ言ってるわけ?」




「…………なんかえらくはっきりした夢だな」
 周囲は真っ暗で、良く見ると自分の周りには子供たちが集まってスースーと寝息を立てていた。こんなに大勢とご飯を食べて、お風呂に入って、遊んで寝たのはいつ以来だろう。
 そんな空間で、坂本から美月の話を聞いたせいか、昔の事でも思い出したのだろう。などと思いながら、北村は再び眠りについた。


 2日の北村はというと、まず朝から、
「しゅーんちゃーん、おーきーてー!」
「ぶふっ、ゲホゲホ」
「せんせー、しゅんちゃん起こしたよー!」
 布団の上から子供達のダイビング。起こしたという表現が疑わしい手荒な洗礼で朝が始まった。
 着替えを終えた北村が、「はやく朝ごはん朝ごはん〜」と袖を引っ張る子供達を伴って食堂に現れると、いくつかの机を合わせた上に食事が並んでいた。普段の即席麺の寂しい光景と異なり、見ただけで五感が刺激されるような温かい食卓だ。
「俊一君、おはよう」
 子供達にスープの配膳をしていた坂本は、北村の姿を認めるとにこやかな挨拶をしてくれた。
「せんせー、わたしが起こしたんだよー」
「そうか、静ちゃん。ありがとう」
 えへへー、と褒められて上機嫌の子供だが、あれは起こすという行為ではないだろうと北村は腹をさすりながら思っていた。
「さて、ではみんな。席に着きましょう」
 はーい、という声を上げ全員が席に着くと、朝のお祈りが始まった。お祈りと言っても、よくよく思えばその内容は通常の家庭での「いただきます」を丁寧にしたものだ。命あるものを命あるものが食べることへの感謝の念を言葉にする。北村は改めて、アパートの一室で深夜にインスタント食品を摂取していると、人間的な側面が失われていくように感じた。こういう「家」が実家だからこそ感じるものだろうか。
 その後のがやがやと騒がしく囲む食卓も、北村にとっては懐かしくもあり新鮮でもあった。
その日の北村は坂本や河原の手伝いをしながら、子供達と一日中遊び回るという、おおよその20代男性が経験しないだろう正月休みを満喫していた。こういう時間はあっという間に流れさる。2日目も夕方に差し掛かり、北村は1人住まいのアパートに戻る準備を始めた。といっても、北村を引きとめようとする子供達が荷物を隠したり、背中におぶさったりする中での作業は思った以上の難易度であった。
「お、俊一! 久しぶりじゃねえか」
 そうこうする内に、俊一が園にいた頃のバカップル、孝太・奈々子夫妻の帰省時刻になっていた。
「みんな、俊一君でよく遊んだのかなあ?」
 広瀬奈々子こと旧姓・井口奈々子が、ほんわかのんびりした口調で子供達に語りかけると、彼らは口々に「うん、遊んだ遊んだー!」と返してくる。
「奈々子さん、日本語間違っている! オレでじゃなくて、オレと遊んだ……でしょ」
 あれー、そうだっけ? と、首を傾げる奈々子は変わらず可愛い。
「俊一君も相変わらず日本語間違えてるわよねえ」
「そうそう。変わらずお前もバカだなあ」
 逆に北村が広瀬夫妻に言葉遣いを指摘される始末。そして同時に、こんな可愛い人を嫁にした孝太は、北村にとって憎たらしくも感じる。
「さん付けなんて、他人みたいにねえ。ねえ、孝ちゃん」
「そうそう。あれだけ家族家族って言っているヤツが」
「いや……孝太のバカはともかく、奈々子さんはその……なんというか」
 北村と孝太は同い年だが、奈々子は彼らの2つ上の先輩だった。という年齢差は呼び方へのさしたる問題ではなく、若かりし日の色々な思い出のせいもあって、北村は奈々子に対する「さん付け」だけは止めることが出来なかった。
「まあ、当時はお前もオレも若かったからな」
 と、事情を知る孝太がバンバン北村の背中を叩いた。奈々子は小さな赤ん坊を抱きながら、それをニコニコ見ていた。
「今ではお前みたいなヤツに子供がいるとはね。孝太みたいなバカにならないといいけどな」
「バカとはなんだ、バカとは。オレと奈々子の愛の結晶だぞ」
 と、寝ている赤ん坊の頬をプニプニつついて、奈々子似の可愛い女の子になるぞー、と頬をほころばせていた。
「んで、お前は今日帰るの?」
「ああ、ホントはもう帰ってるはずだったんだが」
 と、視線を下に落とすと子供達が北村の裾を掴んで離さない。
「まあ、いつものことだわな」
「明日までいれば、みっちゃんにも会えるわよ?」
 黒崎か。北村自身、園を出てから疎遠になった仲間もいれば、広瀬夫妻のように年に何回か連絡を取り合って会う仲間もいる。黒崎はその前者だった。
 園にいるのは長くても18歳の高校卒業の時まで。北村が園を出てから8年になる。
「黒崎に会ったの、もう6年も前になるのか」
「あれ? 黒崎が園出た年から会ってないのか?」
 孝太が意外と言わんばかりに聞いてくる。北村はうなづき返した。
「お前らなんだかんだ色々あったからな。ここ出てからも会ってると思ったよ」
 孝太の言うように、黒崎との間にはとにかく色々あった。多分、園にいた当時の人間関係では奇妙な感じでの濃厚さは一番だっただろう。
 しかし、当時はお互い携帯すら持っていなかったし、いつしか連絡が途絶えていた。互いに園に顔を出してはいたものの、来る時期がすれ違いで長らく会う機会にも恵まれなかった。
「オレみたいに殴りあった人間とは今でも連絡してんののねえ」
 孝太が半ばあきれたように言ってくる。
「まあ、みっちゃんには私達も6年前に会ったのが最後だけどねえ」
 久しぶりに会うのが楽しみ、美人になってるだろうなあと奈々子が嬉しそうに口にする。
「せっかくなんだし、連絡取り合ったらどうだ?」
 孝太は黒崎に北村の携帯番号を教えておく事を提案してきた。北村も黒崎と奇妙な関係だったとは言え、別に連絡を取り合いたくないわけでもなかった。
「じゃあ、うん。伝えといてくれ」


 結局その後の北村は子供達がどうしても彼を離さなかったため、広瀬一家も交えて晩御飯を食べ、子供達が寝静まってから終電でアパートへ帰る事となった。
 アパートは園と違い、しんとした静けさ。周囲の部屋も新年は帰省しているのか、壁越しに聞こえるかすかなBGMも、ドアの開閉する音もほとんど聞こえない。
 昨夜見上げた天井は、前衛芸術ともよぶべき子供達の似顔絵や不器用な飾りつけが賑やかだったが、今日見上げる天井はひたすらに真っ白。
「黒崎。うん、黒崎か……どうしてんのかね、アイツ」
 またこんな風に懐かしい時に思いをはせていると、当時の夢を連日見そうな気がするなと思いながら、北村は重くなったまぶたを閉じた。


 第3話


「また、お前は煙草吸いやがって」
 オレがいつものように園の裏口付近で口から煙を吹かせている黒崎を見つけた。黒崎は振り返りざまに何かを言いかけた様子だったが、珍しく文句も言わずにこちらをじっと見ている。
「なんだよ」
 オレが聞くと黒崎は煙をくゆらせ一息ついて、目の下を指差した。
「あざ、出来てるよ」
 オレは思わず舌打ちして、目を逸らしてしまう。これじゃあ、どちらが注意されている立場なんだか。
「アンタ、喧嘩でもしたの?」
「……転んだようにでも見えたか?」
 普段より気が立っていたためか、つっけんどんに返してしまう。
「まあ、アンタが誰と殴り合っても、私の知った事じゃないけどさ」
 黒崎は大して気に留める風でもなく、また煙草を一口吸って煙を吐き出すと、意外にも自分から火を消した。
「目は大事だから気をつけた方がいいんじゃない」
 普段なら「また注意に来たのかよ。何様なんだよアンタ」と口論になるところが、そうならないと肩透かしを食らったような気分になる。変な沈黙が2人の間に流れる。沈む夏の夕日が2人の頬をなでていた。
「今、手持ちのお金無くってさあ」
 先に口を開いたのは黒崎。ブラウスの胸ポケットから箱を取り出すとくしゃりと潰した。
「最後の1本……今日のところは」
 これ以上見てようが注意しようが、煙草吸いようが無いから放っておいてという事のようだ。
「あのなあ……」
 オレが口を開こうとした時、こちらに駆けてくる足音が聞こえた。
「ホラ、誰か来た」
 黒崎はあっち行けよという口調で、夕日の方に目を移した。近づいてくる足音と一緒に「俊一君」という奈々子の声が混じって聞こえる。
「ほら、ご指名じゃん。私よりも構ってあげた方がいい女がいるんじゃないの?」
 振り返った黒崎は、少し冷たい笑みを浮かべて突き放すようだった。


 オレ……北村俊一と、不良少女……黒崎美月との出会いは高校1年の春の事だった。
 黒崎は幼い頃からの両親による虐待と施設への入所、親権をかざした親が強引に家へ連れ戻しての繰り返しの中で育ってきた。
 最終的に親から完全に切り離す形で「おひさま園」にやってきたのは中学2年の時。大人たちの間で振り回され、信じるべき親からは散々暴力を振るわれてきた黒崎は、人間不信の塊そのものだった。
 煙草は吸う、門限は守らない、学校から神父の坂本が呼び出されることは数知れず。最初の夏までには、園内でそうした黒崎の行動に色々口を出すオレと、それに反発する黒崎の関係性が構築されていた。
「お前達、案外気が合うんじゃねえの?」
 と、面白半分に告白しちゃえよと言っていたのは、オレと同い年の広瀬孝太。からかいとしては思春期の少年少女にありがちなものだったが、オレはそう言われるたびにモヤモヤした気持ちがするのを禁じえなかった。


「奈々子、オレと付き合ってください」
 オレが2歳年上の井口奈々子に告白したのは黒崎が園にやってきた年の夏。オレの告白にいつもは朗らかな笑顔が似合う彼女は、目を泳がせていた。少しの沈黙の後、
「ごめん……実は私、孝太君と付き合ってるの」
 言いにくそうに奈々子の口から出たのは、小学校からの園の悪友の名前だった。その日の夕方、いつものように黒崎との事をからかった孝太を思いっきりぶん殴ってしまった。


「……今日なら煙草吸ってないわよ」
 そんな日の翌日、園の裏口にはまるでそこが定位置かのように黒崎が夕日を見ていた。
「…………」
 オレが無言で手の中の物を投げると、黒崎は特に表情も変えずにそれを受け取った。
「…………」
 黒崎は何も言わずに包装を解くと、胸ポケットからライターを取り出して煙を流し始めた。
「アンタも吸う?」
 黒崎が箱から1本オレに差し出してくる。オレが逡巡すると、
「慣れない事するもんじゃないわね」
 再び手を引っ込めて、箱を胸ポケットにしまった。
 しばらく沈黙が漂う。
「あのさあ」
 黒崎が煙を吐き出す。風下のオレの目に少し染みた。
「普段煙草吸うなって言っておいて、私にくれるなんて……頭どうかしたの?」
 夕日に照らされた黒崎の視線は、どこを見ているのかよく分からない。
「昨日は色々騒がしかったじゃん。アンタにしては珍しいね」
「お前に何が分かるんだよ」
 昨日の告白、ケンカの件。園内ではその話題で持ちきりだった。こんなに気まずく、居心地の悪さを感じるのは初めてだ。
「何もわかんないね」
 黒崎が突き放すように言うと、オレも思わずムッとしてしまった。
「そりゃそうだろうな」
「そりゃそうじゃん。だって私、部外者だもん」
 そう言って煙を出している黒崎は、少し笑っているようにも見えた。
「私はここに居場所なんて感じてないけど、アンタはあるんでしょ? 私に何か求めてくるなんてピントがズレてんじゃないの?」
 黒崎の言う通りで、確かに何も言い返せない。そもそもオレは黒崎に何を求めて来たのだろう。
「ま、煙草はサンキュー」
「チッ、その1箱で煙草なんて止めろよな」
 自分から煙草をあげてしまった以上、いつものような説得力には欠ける台詞だとオレ自身思った。
「あ、そうだ。アンタさあ」
 黒崎から珍しく話題を振ろうとしてくる。煙草をあげたためだろうか、それとも所在無さげにしているオレをからかいたいのだろうか。
「目は大丈夫だった? ……見えてるか?」
 これ何本だと言わんばかりに、黒崎は左手でピースサインを作ってみせた。
「2本だな」
「ふーん、大丈夫そだね」
 そう言うと黒崎はオレへの関心を失ったように、壁にもたれかかって夕日の方をぼんやりと見遣った。




 ジリリリリリリリ!
「…………っ、と……また見た……」
 布団の中からアラームを止めて、またも懐かしい思い出を夢に見た1月3日の朝。そういえば今日は、黒崎が園に戻ってくる日のはずだ。
 園からアパートに戻ってくると、なんとも素っ気無い日常生活がそこにある。1人でカップ麺をすすり、ノートPCで正月特番を見る。四半世紀前の日本人にはおおよそ考えられない正月の風景だ。
「はあ……明後日には仕事始めか」
 社会人の自殺が多い日というのは決まっているらしい。週の初めなど仕事の始まる日だ。休日の開放感から一転し、強烈なストレスに晒される最初の日は、人の憂鬱な気持ちを一層加速させるのがその理由だとか。
 まさに北村もそのような気分を禁じえない。自殺をしたいとかそういう意味ではなく、ただ生きるために面白くもない仕事を、上司の罵声を浴びながら続ける事に憂鬱以外のどの感情を持って当たれるというのだろうか。
「居場所ってどこなのかねえ?」
 北村は独りごちたが、静かな部屋の空気に吸い込まれていった。


 第4話


 その後、孝太から北村に対して「黒崎にお前の番号教えたから」という連絡が入ってきた。逆にそこで止まっているという事は、黒崎の番号が聞けたわけではないのだろう。
 いや、黒崎に親しみを込めて「みっちゃん」と読んでいた奈々子がいるのだから、彼らは黒崎の携帯について教えてもらっているのかもしれない。ただ、それを北村に伝えていないのだとすれば、黒崎が北村に教えることまでは断ったとみることもできる。
 正月休みが終わり、日々の忙しさが戻る。1週間、1ヶ月と時間が経過し、いつしか桜の花が舞い散る季節になっていた。
 北村が営業に回っていると、スーツが馴染んでいない新社会人とすれ違う事が多くなった。
「北村君、早く見積もりを上げてくれ。私もあんまり待っていられないんだよ。仕事はスピードだよ、スピード。1時間かかる仕事も10分でこなす位にやってくれよ」
「はい、ただちに提出します」
 黒ぶち眼鏡の上司も春の陽気にあてられたのか、粘着質に絡みがちの嫌味が減少傾向になっていた。
「これから新人配属もあるだろ? 上が各部署の空気とか気にしてるんだよ」
 と、北村の同僚が彼に耳打ちした。黒ぶち眼鏡も春先の上流からの空気は気にかけるようだった。
「あんまり上からの評判もよくないんだよ」
 と、ざまあみろと言う風で同僚がニヤけていた。部署の成績を上げて上からの評判をよくするつもりがうまくいかない。だから部下を叩きに叩く……という方式が見事に失敗している典型例という事のようだ。
「北村君。ムダ話しているヒマがあったら手を動かしてくれ! その見積もり出したら、ほら……なんだっけ、新規の営業で……ああ、T社の方に行って仕事とって来るんだよ。お金取ってくれない営業はすぐにクビなんだよ、クビ。さっさとしてくれよ」
 日本ではそういった理由で社員の首を切ることはできない仕組みになっているが、残念ながらそう思わない人も多いようだ。春の陽気にも関わらず、殺伐とした競争社会をこの国は選択しつつあるらしい。北村はため息を漏らして、見積書を仕上げ始めた。
 こんな日々の忙しさの中で黒崎から変わらず連絡が無いこともあり、北村もいつしかそのことを忘れ始めていった。


 視界がまるで歪むかのようなアスファルトからの照り返し。コンビニのドリンクコーナーは盛況のようで、道行くサラリーマンがペットボトルに口をつけては、息を吹き返したように歩いていく。
「あっついなあ」
 北村は毎日のように高い空から降り注ぐ熱線攻撃に辟易としていた。意識せずに夏の蒸し暑さを呪う声が出てしまう。
 先ほどまで営業で訪れていたビルを出ると、冷房の効いた天国から地獄への急降下。
 朝から夕方まで暑い中を町から町へビルからビルへと渡り歩いては、営業の日々。夜中に部屋に戻っても蒸し暑さにさいなまれる。夏というのは長期休暇のある子供以外には最もいらない季節なのではと彼は思っていた。
「次の営業は……あー、引継ぎのとこか」
 手帳を見て次の営業先を確認する。それは長期休暇になった先輩から引き継いだ得意先だった。
 ペットボトルのお茶に口をつけて、一息吐き出す。体調不良の長期休暇は今の日本では珍しくもない。数百万の人間がその予備軍にもなっている。明日は我が身かもしれないのだ。北村はもう一口お茶を飲み込むと、さらに大きな息を吐き出して、焼けるようなアスファルトの上を歩き始めた。


「いや、この暑い中ありがとうございます」
 北村が引き継いだ先の取引先で、担当者との挨拶を済ませる。相手の担当者は柔和な顔立ちの中年男性で、初対面の北村に当たり障りのない世間話を振ってきた。
 応接室のドアをノックする音が聞こえ、失礼しますと女性の声。
「北村さんどうぞ。喉が渇いたでしょう」
 出されたのはアイスコーヒー。もちろん全部飲むわけでもないが、一口とるだけでも夏の太陽に悲鳴を上げている身体には染み入るものがある。
 仕事の話については得意先で内容も引継ぎ程度だったこともあり、出された飲み物の氷が小さくなる前に担当者に見送られてその場を辞した。
 北村が外に出ると、西日が照りつけて汗が滲み出す。うんざりした気分になりながら、彼は駅の方へ足を向けた。手帳に書かれたその日の営業回りはここまで。後は会社に戻って事務作業をして、などと彼が考えていると、後ろから自分の名前を呼ぶ声がした気がする。少し立ち止まって、気のせいかと思うと、やはり後ろから誰か追いかけてくる。振り返ると、先ほど訪れていた営業先の方から若いOLが走ってくる。
「北村さん、忘れ物です」
 OLが手にしていたのは、ハンカチのようだった。北村がポケットに手を入れてみると確かに無い。
「すいません、暑い中。ありがとうございます」
 お礼を言って女性からハンカチを受け取る。女性は北村を見て、何か考えているようだった。
「どうしました?」
 北村がそう尋ねると、ゆるくウェーブのかかった長い黒髪の女性は逆に尋ね返してきた。
「実は先ほど、私がコーヒーを運んだんですが」
 言われれば、担当者と話している時にコーヒーを運んできた女性だった。
「北村……俊一さん……ですか?」
 自信無さ気に聞いてくる。苗字はともかくとして……フルネームをどうしてと、北村は思った。机の上に置いてあった名刺でも見たのでなければ、お茶を運んだだけの相手の名前を知ることがあるだろうか。
「はい、そうですが」
「もしかして……『おひさま園』の?」
「えっ?」
 北村は驚いた。名刺の情報で分かるものではない。彼の出自を分かるという事はつまり、同窓の人間ということしか考えられない。
「あ、間違っていたらすいません。突然変な事を聞いてしまって」
 慌てて頭を下げた女性は、すいませんでしたとその場を去ろうとした。
「あ、いや。間違ってないです」
 北村が慌てて返すと、女性がパッと顔を輝かせたように彼には見えた。
「やっぱり! 兄さんだ」
 突然街中で自分の事を兄さんだという女性に出会った北村。面食らったように驚く。それに彼の事を兄さんと呼ぶ人間はそういない。
「分からない? 私よ私」
 女性は興奮気味に自分の顔を指差した。北村がえっとと言いよどんでいると、
「あ、確かに前とは印象が変わってるから」
 女性が長い黒髪を後ろ手にまとめて持つと、髪の印象が少し短めに見えてくる。北村は驚いた様子で、
「あ、まさかお前、黒崎! 黒崎美月」
 女性……黒崎がピースサインを作る。自由になった黒髪がふわっと流れる。
「見てすぐ分からないとは酷いなあ。そう、正解正解」


「髪も長くなってたし、学生時代の印象しか無かったから……すぐに気が付かなかったんだよ」
 その後、すぐ近くのカフェに入った2人。席についた黒崎はうって変わってむくれた様子だった。
「私はもっと早くに気が付いたのになあ」
「いや、だから悪かったって」
 コーヒー一杯位の時間ならという事になったのだが、黒崎は不機嫌なまま。北村はどうしたものかと思いながら、運ばれてきたカフェラテを一口。
「ん、まあしょうがない。おごりねおごり」
 は? と北村が口にしたときには不機嫌さはどこへやら、上機嫌になっている。
「たく……お前そんなにコロコロ表情が変わるやつだったか?」
 北村が呆れ半分でそう言うと、
「そうだよ。知らなかった?」
 正直言えば彼にとっては知らないとも言えた。園にいた頃の黒崎が笑ったりするのをあんまり見た記憶は無い。
「そんな様子じゃ兄さん、彼女もいないんじゃない?」
 黒崎が意地悪っぽく笑みを浮かべている。北村としては悲しい事に反論の余地が無い。
「そういうお前こそどうなんだよ」
 と切り返すのが精一杯だった。黒崎は「ん〜」と外に目を移すと、
「いないけど、私はその気にならないだけだもん」
 ただの強がりというわけでも無さそうで、北村から見た黒崎ははっきり言えば美人の部類になっていた。スタイルも思わず目に入れてしまう胸といい、少しきつい目つきだが整った顔立ち。
「ん?」
 黒崎と目が合ってしまう。思わず目をドリンクに移してしまう北村。
「兄さん、見とれてたの? あらら」
 まるで弄る対象を見つけたかのような表情。北村にとって否定しきれないところも悲しいといえばそういう男の性。
「と、そういや思い出した」
「何を?」
 今回互いに仕事中で時間もそれほどあるわけではない。そんな中で一つ有意義な問いを北村は出すことが出来た。
「オレの携帯。孝太から聞いたんだろ?」
「あ、あー」
 黒崎は少しバツが悪そうに視線を逸らす。半年以上の間、何もないまま放置されていた件だ。
「違うんだよ。誤解しないでね」
 黒崎はちょっと慌てたそぶりで、手を左右に振ってみせた。
「連絡を取りたくないってわけじゃなくて、今は……まだダメかなあって」
 黒崎の言っている意味を捉えかねた北村は、少し眉間に力が入ったかもしれない。
「うん、色々考えているとこがあってね。そうこうしている内にゴメン。うん、ゴメン。えっと……かなり遅くなったけど、私の連絡先教えるよ」
 と、黒崎が携帯の先端を向けてくる。北村が携帯の先を向けると黒崎の携帯番号とメールアドレスが送信されてきた。
「色々考えてるって?」
 北村がそう聞くと、黒崎は少し照れているような困っているような複雑な表情を浮かべた。
「いや、まあ今話してくれなくてもいいけど」
 6年半ぶりに再会して、互いの連絡先も交換できた以上、黒崎が言いよどんでいる件に現時点でこだわる必要は北村には無かった。言える状況になれば、言ってくれるだろうという信頼感は彼にはあった。
「そだね。うん、きっとぼちぼち話せると思うよ」
 黒崎は笑顔を浮かべると、コーヒーご馳走様ねと席を立ち上がる。北村も時計を見ると店に入って10分ほど。仕事中の身では今日はここまでだろう。
「兄さん」
 北村が2人分の会計を済ませてカフェの外に出ると、先に外にいた黒崎は手を振りながら、
「連絡するよ。今度はゆっくり話そう」
 そう告げて黒崎が雑踏の中に消えるのを見届けると、北村も駅へ向かう人ごみの中に歩みを進めた。


 第5話


「へえ、じゃあ連絡取れるようになったのか」
「会ったのはたまたまだったけどな」
 夏が盛りとなったその時期、エアコンを効かせた部屋で日曜バラエティ番組を見ながらくつろいでいた北村。彼の元に、園時代の悪友、広瀬孝太から携帯の着信があったのはそんな時であった。
「営業先で働いてたなんて……偶然にも程があるよな」
「確かにそうだな」
 北村も苦笑せざるを得ない。いくら営業で外回りが多いからといって、それは宝くじの当選確率が数百万分の一から数十万分の一になる程度の事だろう。
「お前、黒崎の携帯教えてもらったんだろ?」
「確かに、奈々子は教えてもらっていたけど……」
 携帯の向こう側にいる孝太は、明後日の方向を向きながら頬をかいているように、北村には思えた。
「お前が俺に教えてくれていれば、早くに連絡取れたかも知れねえのに。お前らが黒崎に再会してから、7ヶ月経ってるんだぜ?」
 そう言いながらも北村は、ある程度は孝太からの反応を予想できていた。
「いや、黒崎が自分からお前に連絡するって言ってたんでな」
 その答えは北村の予想通りのものである。
 女性が男性の連絡先を受け取って「自分から連絡する」という場合は、その男性に連絡する気の無い場合が大半である。という、男女コンパ必勝法なる雑誌記事に書かれていたのを、北村は読んだことがある。
「でもどうなんだ、俊一?」
「何が?」
「黒崎のヤツ、お前と会ったの喜んでたんだろ?」
 それは偽り無く真実だったと、少なくとも北村の方では思っていた。会いたくもない人間相手にわざわざ勤務中の時間を割いたり、笑ったりするだろうか。
「そうだな。黒崎からかけてくる時もあるよ」
 黒崎美月との再会から2週間あまり。3日に1回くらいはメールなり直接の会話が来るようにはなっていた。
「いや、奈々子もさ、黒崎に言ってたんだよ」
「何を?」
 北村の携帯に赤ん坊の泣き声が入ってくる。孝太の後ろで奈々子があやしている光景が目に浮かぶ。
「こっちから俊一に、黒崎の連絡先を伝えようかって」
「で、黒崎はどう言ってた?」
 広瀬夫妻に提案された黒崎が、どのような反応を示したのかは、北村にとって興味を引くものだった。
自分が黒崎と再会したとき、何で連絡を寄こさなかったんだと尋ねた。その際に黒崎は照れているとも困っているともとれる反応をしていたからだ。
「ちょっと色々……兄さんには私から連絡できるようになるまで、もう少しだけとか言ってたぞ。というか、お前こそ再会した時に聞かなかったのか?」
 黒崎はどうやら、広瀬夫妻に対しても北村同様の困惑した態度をとっていたようだ。
「私から連絡できるようになるまで?」
「ああ、そんな言い方してたな」
 どういう意味だろう。確かに自分に対しても似たような事を言っていた。そう北村が考えていると、もう一方の電話口からはさらに言葉が続けられた。
「しかし、黒崎に6年ぶりにあって驚いたな」
「驚いた? どこに?」
「いや、美人のなんのって……奈々子は太陽のように温かくてカワイイ。黒崎は逆に月の様に美しくなってる」
「お前、いつからポエマーになったんだ?」
 しかし、これは北村も言いながら頷いてはいた。6年半前に18歳だった少女は、今では笑顔を見せられた瞬間に息を呑むほど美しかった。
「いや、それ以上に本当に変わったと思う。典型的な不良少女みたい……いや、自分から孤立しようとしていた黒崎が、コロコロ笑っては子供達と楽しそうにしていた」
 北村は「おひさま園」時代の黒崎を思い出してみた。
 施設の裏口で煙草を1人吸って夕日をながめている。自分に話しかけてくるなというオーラを放っている。触ると怪我をするぞと主張しているような鋭い刃物、そんな彼女が思い浮かぶ。
 もっともそのイメージは黒崎が中学2年だった当時に強く残るもので、18歳になった黒崎は少しばかり回りに気を遣う位にはなっていた。
「オレと会った時も、笑ったりむくれたりだったな」
「園を出る頃には少し丸くなってたが、社会人生活6年……男でも出来て変わったかね?」
 黒崎も24歳の女である。18歳で社会に出て、出会いもあれば別れだってあったのではないか。そうでなくても、周囲との関係性の中で性格が変わっていくことは十分あり得る事だ。
「今、特に付き合ってる男がいるわけでもないみたいだがな。本人が言ってた」
「ふーん……まあ、せっかく連絡出来るようになったんだ。6年分の話はたっぷりあるんじゃねえの?」
 お前からも積極的に連絡取ったらどうだ、と孝太は北村にほのめかした。


 広瀬孝太にそそのかされたという訳ではないが、黒崎から連絡が度々来るようになれば、北村から彼女へ連絡を入れるという事も度々となる。これは自然の成り行きであった。
 こうして再会から1ヶ月と経たない内に、休日にランチでもしながら直接会うような状況になるのも、また自然であった。
「ふーん、兄さんも大変だね。毎回毎回」
 運ばれたケーキをフォークで突付きながら、笑い混じりで同情を寄せてくる黒崎。着込んだ白のワンピース以上に、透き通るような白い綺麗な手が、北村の頭へと伸ばされてきた。
「うん、よく頑張ってる。兄さんはいつでも忍耐強いね」
 そういって伸ばした手で北村の頭を数回撫でた。撫でられた方は少し憮然とした面持ちだ。
「子供扱いされている気がするんだが」
「大丈夫大丈夫。これでも兄さんと呼んでるんだから、年長者として尊重してみせてるじゃない」
 その言い方自体が、まるで子供扱いされているかのようにも感じるが、親しみが込められたものである事ぐらい北村でも理解できる。
「10年前には私に手を焼かされて、今ではハゲた中年上司に手を焼かされ……自分から苦労をわざわざ買う人だよね、兄さんは」
「会社は飯を食うためだから仕方なく耐えてるだけだ」
 北村は息を吐き出してコーヒーカップを手に取る。
「お前に対してのそれは……別に苦労じゃない」
 さらに言葉を続けようとした北村に、黒崎が笑顔で彼の言わんとするところを続けた。
「家族なんだから、当たり前だ! ……でしょ?」
 黒崎が小さく笑ってみせる。北村も自嘲気味に笑わざるを得ない。
 黒崎は満足げに首を何度か小さく縦に振ると、バッグから煙草を取り出して火をつけた。煙をくゆらせる姿に、北村が苦い表情だ。
「結局止められなかったのか?」
 黒崎は煙が届かないようにという配慮からか、顔を横に向けていたが、視線を北村に戻すと、困ったかのように空いた手で後頭部をかいていた。
「もうちょっと……踏ん切りがつくまで」
「煙草を止めます……これが最後の1本、って言い訳してるみたいに聞こえるぞ」
「そうだね」
 かつては注意するたびに反発を受け、睨まれるだけだったが、成人した今では笑みが返ってくる。時間というのは不思議なものだ。
「おひさま園にいた頃は、お前に兄さんなんて呼ばれたこともなかったな」
 当時を振り返って、北村はつぶやくようだった。黒崎は煙草を吸う手を止めて、ほとんど吸われていないそれを灰皿へ押し付けた。
「そうね。でも……1ヶ月前に会った時に、自然に出たのは兄さんって言葉だったけどね」
 髪をかく仕草。黒崎はやはり照れているのだろう。これこそ年数の成せる業だろうか。
「だって、再会して……アンタ……とは言えないでしょ。というより、兄さんの説教の成果が10年越しに表れたんじゃない」
 そう続ける黒崎の言葉の後半は、半ば北村をからかうようにさえ見える。
「確かに。睨まれたり、冷たい視線でアンタって言われたらショックこの上ないな」
 北村の返しに、笑顔のまま頷く黒崎。コーヒーカップに手を伸ばす。
「あっ、すいません」
 その後、黒崎は近くにいた店員に謝意を伝える。カップの取っ手に手を伸ばそうとしたのが、本体に手を伸ばしてひっくり返したのだ。テーブルから床へとコーヒーが滴り落ちる。
「やっちゃった」
 黒崎は子供が悪戯に失敗したかのような誤魔化し笑いをしていた。


 元々1つの施設にいて、説教する側とされる側という不思議な関係だった2人である。それが6年半の後に再会すると、当時を笑いながら語り合う形になるのだから、時間は魔法のようですらある。
 8月に入り休日のランチを共にするようになると、話者の物理的接近が更なる心情的な接近を許すようになるのも人間ゆえのようだ。
「お、兄さん。遅い遅い」
「悪い悪い」
 8月の半ばには遊園地だのといった、おおよそ友人ないしは恋人同士が通うに違いないスポットに足を運ぶようになっていた。
「兄さん、二度寝でもしてたんでしょ」
「しょうがねえだろ。昨日だって帰宅は午前様だったんだぞ」
「言い訳は聞きたくありませーん」
 2人の呼び方は周囲からすれば兄妹のようにみえ、また当人達もそのような振る舞いをしているようにみえた。
「じゃあ、ここの入園料は兄さん持ちだよね」
 北村の顔を覗き込むように、眩しい笑顔が現れる。北村は思わず自分のこめかみを指で押さえてしまった。
「妹を暑い中待たせて日焼けさせるなんて、悪いお兄ちゃんだよね、全く」
 見てごらんなさいとばかりに、自分の腕をさすって見せる。その腕は黒の対極そのものだ。
「分かった。俺が2人分払う」
 しぶしぶ北村が頷くと、黒崎は腕を絡めてきて、大喜びだ。
「じゃあ、兄さん。どのアトラクションから行こうか? お化け屋敷? ジェットコースター?」
 呼び方さえ別のものであれば、2人は兄妹という関係以外のものに周囲には映るかもしれない。しかし、北村にとっての黒崎は大事な「家族」そのものである。
 彼を「兄さん」と呼ぶ黒崎もその域を超えるものではないだろうと、北村は思っていた。
 楽しい時間ほど過ぎるのは早く、苦痛な時間ほど長く感じると言われる。北村にとってこの時間は早く過ぎ去って行き、気がつけば夏の長い日が沈もうとする時間となっていた。
「…………」
 彼らが最後に選んだのは大観覧車。ゆっくり回るゴンドラの中、手すりにほおづえついた黒崎。その彼女の頬を夕日が照らす。北村は思わず見とれてしまった。
 かつて施設の裏口で煙草を吸っていた黒崎。彼女の頬に夕日がさす光景もよく見た。なんとなく、長い黒髪が短かった頃の、笑顔が人を拒絶するようなそれだった頃の彼女と被って見えた。
 2人の間に会話が途切れたのはそれ程長い時間ではなかったが、北村には少し長い時間に感じられた。
 黒崎は北村の視線に気がついてか、ほおづえつきながら夕日にやっていた視線を彼に移した。目をぱちくりさせると、彼女は微笑んだ。
「兄さん、楽しかった。ありがとう」
 2人が恋人ないしその前段階の異性同士であれば、その後に続くものは、互いの唇を重ね合わせる行為が最も自然だったかもしれない。
 だが、黒崎は微笑んだままであり、北村も同じように返しただけであった。
 また訪れた沈黙を破ったのも、黒崎だった。
「もうすぐお盆だけど……兄さんは帰省するの?」
 もちろん、彼らの帰省先に先祖代々のお墓があるわけではない。彼らにはそのような場所がそもそも存在していないか、あっても近寄れる存在ではない。あるのは彼らが多感な時期を少なからず過ごした大きな家族のいる「おひさま園」である。
「せっかくのお盆休みだし、行くつもりだけど……黒崎は帰るのか?」
 この問いかけに、黒崎は「うーん」と困ったようだ。夕日に視線を戻す。強い西日が当たって、かすかに表情が読みにくくなる。
「今回はパス」
「用事でもあるのか?」
 黒崎は一瞬考えるような素振りをみせ、次の瞬間にハッとしたように振り返って手を振った。
「誤解しないでね。兄さんが帰るから、私が帰りたくないって意味じゃないんだよ」
「そんな事、思うわけねえだろ」
 北村が笑みのままそう返すと、黒崎は胸を撫で下ろして、またほおづえついて夕日を見遣った。
「ちょっと、色々考えてるんだ」
 北村には彼女の視線が夕日というよりも、そのもっと先を見ているように感じられた。
「兄さんには……絶対話すから。絶対」
「ああ、待ってる」
 北村は彼女の視線の先にある夕日に目を移した。ゴンドラのガラスに夕日のせいでおぼろげに反射されている黒崎の姿。彼女は真剣な面持ちで頷いていた。


 第6話


 黒崎美月と再会した最初のお盆休み。北村は彼にとっての実家である「おひさま園」へと足を運んでいた。
「しゅん兄ちゃん、セミ捕まえた〜」
「オレなんてクワガタ捕まえたんだぞ〜」
 降り注ぐ日差しの暑さに辟易する都会のサラリーマンとは異なり、子供たちは暑さの中での収穫を北村へ誇らしげに見せていた。
 彼の部屋からは、園まで距離にして電車で2時間。普段の彼が休日に目にするのは、四方の白い無機質な壁、カップ麺を食べるためだけに使われているガスコンロ、テレビ代わりにしているノートPC位のものだ。
 しかし、園とその周囲に広がる光景と温かみは、無機質なそれとは真逆のものだった。
「しゅんちゃ〜ん、こっちこっち」
「はいはい。今行くよ」
 暑い中、肌を黒くしながら走り回る子供たち。「おひさま園」には敷地内に2舎の受け入れ施設があり、最大24名の子供たちの受け入れが許可されている。いわゆる小舎制の児童養護施設だ。
 3年前後で園を後にする子供もいれば、北村のように小学校から高校卒業までを過ごした者もいる。
 この年は中学生4人、高校生3人。幼稚園児から小学生までの子供が過半数を占めるのが常だ。
「みんな、そろそろお昼にしよう」
 施設内から人柄そのものを写したような、優しく穏やかな面持ちの坂本が出てきた。先ほどまで走り回っていた子供たちがその周りに群がる。
「せんせー、今日のお昼なにー?」
「冷やしちゅうかが食べたーい」
 それら子供たちの頭を撫でながら、ゆっくりと首を縦に振る坂本。この園に入り40年にもなる、この神父でもある児童指導員は、誰からも慕われる存在だ。
「俊一君もご飯にしよう。喉も渇いただろう」
 北村と坂本に血縁上での関係は無いが、やはり北村にとっての坂本は父親でもあり、尊敬できる大人でもある。
 食堂に足を運ぶと、自身がシスターでもある保育士の河原が、配膳を行っていた。園内での年長者でもある中高生達がそれを手伝っている。
 外で走り回っていた子供たちが保育士達と手を洗って席に着くと、お祈りが始まってご飯となる。幾人かの子供が要望していたように、色彩豊かな冷やし中華と麦茶が各人の前に置かれていた。
 ご飯が終わると、小さい子供たちは首をこくりこくりと降り始める。こうして、みんなの上にタオルケットが置かれていき、寝息が聞こえ始める。寝返りを打っている男の子は、まだ夢の中でセミを追いかけているようですらある。
「俊一君、忙しい中の休みなのに、いつもいつもありがとう」
「いえ、こちらこそ楽しい時間を貰っています」
 事務室で北村をいたわってくれる坂本。坂本が北村に対して「いつもすまないね」と言わない辺りが、彼にとっては嬉しい事でもある。
「美月君がゼリーを贈ってきてくれたんだ。おやつの時間にみんなで食べよう」
「黒崎がですか?」
「ああ。お盆に来れないから、子供たちと食べてほしいってね」
 微笑む坂本の表情は喜びそのものに溢れているようだが、同時に顔には年数に応じたしわが随分と増えていた。
 児童養護施設である「おひさま園」には様々な子供たちがやってくる。その苦労は並大抵のものではないはずだ。
 北村は特に素行の点で問題のある少年時代ではなかったが、早くに両親を無くし、親戚すら所在の確認が出来ない経緯で入園した。
 黒崎は親の暴力と親戚からの冷遇によって入園し、その素行には相当な問題があった。
 色々抱えている子供たちを相手に、40年もの間、園の責任者を務めてきた坂本は、そのような苦労をおくびにでも出す人ではなかった。それだけに、大人になった北村には常に湛えられた微笑の裏側にあるものも知っている。
「美月君は本当に良い子だね」
「園にいた頃は、オレとしょっちゅうぶつかってましたけどね」
 2人の間に笑い声が自然と出る。まだたかだかこの10年以内の事だ。
「先生もしょっちゅう、黒崎の件で学校に呼び出されていましたよね」
「そんな事もあったね」
 坂本の微笑みは当時を振り返っても、今と変わるところがない。当時の黒崎に対しても、彼はその大きな包容力で受け止め続けていた。
「彼女は今も昔も、変わらず良い子だよ」
「今でも煙草は止めれていないようでした」
 言って北村は、10年前と1週間前を思い出して苦笑していた。
「中高生で煙草はいけない事だったね」
 にこやかに言いながら、首肯する坂本。
「でも、彼女の心根は優しいものだったよ。ずっとね」
 柔和な顔立ちで、いつも眠たそうにすら見える目鼻立ちの坂本だが、北村からは、その視線は相手の心を常に見ているように思えた。
「でもね、俊一君。彼女の素直な優しさを戻してくれたのは、君だよ」
「えっ、オレですか? いや、アイツとは言い争いばかりでしたよ」
 そう返す北村に、坂本はゆっくりと首を横に振って、意志力のある視線を送ってくる。
「君はもう大人になったから、言っても大丈夫だろう」
 坂本は前置きして続けた。
「美月君は自分の親、親戚を表面では憎んでいた。でも、違う。彼女は本当に心の底から家族を欲しがっていたんだ」
 坂本はそこまで言って、いったん目を閉じた。当時を振り返っているのだろうか。そのように北村には思えた。
「彼女は本当は親も親戚も憎んでなんていなかった。彼女が受けた仕打ちは相当のものだった。大人……いや、人そのものを信じられなくなるのが当然な位にね」
 北村は入園した当時、今から10年前の黒崎の姿を思い出す。壁を背に、夕日を浴びて一人たたずんでいる短髪の女の子。声をかければ睨みつけ、喫煙を注意すれば殴りかかってきそうな勢いで反発する女の子。
「彼女は本気で自分を心配して、心の奥底に触れてくれる人が欲しかったんだ。君が真っ正直にぶつかってくれたから、今の彼女がいるんだ」
「オレなんて大した事してないです。オレが言ったのはせいぜい……」
「当たり前だ、家族なんだからな……だったね」
 北村は思わず後頭部をかいてしまう。
「私なんて大した事はしていないんだよ」
「そんな事ありません。先生が……」
 続けようとした北村の眼前に、坂本がやんわりと手を差し出した。北村が口を閉ざすのを見ると、坂本は立ち上がって手近なコップに麦茶を注いで持ってきた。
「今日は暑いからね。ちゃんと水分をとらないと」
 言って出されたコップの中身に口をつける北村。北村が、冷たい飲み物を口にして息を吐き出すと、坂本は続けた。
「人間、心に嘘をついてはいけないよ。でもね、それ以上に謙遜してもいけない。私にとっても美月君にとっても、君は大事な人だ。もちろん、ここにいる子供たちにとってもね」
 坂本も使い古した湯飲み茶碗に口をつける。
「先生……オレは……」
「美月君は何も変わっていないよ。心に嘘をつかなくなっただけで、何も変わっていないんだよ」
 そう言って再び麦茶を口にする坂本を見て、北村は思った。広瀬夫妻や自分と再会した黒崎が、未だ話してくれていない何かを、この目の前の穏やかな老人は知っているのではないかと。でも同時に、それを語ってはくれないだろうとも。
「黒崎のヤツ……今頃何をしてるんでしょうね」
 北村は坂本に尋ねるという風でもなく、なんとなくそう口にしていた。坂本は黙って、再度茶碗に口をつける。
 つい数日前。お盆に帰省するかの話になった時、少し考えて「今回はパス」と言った黒崎。北村からその時の彼女の表情は、西日の強さで見えなかった。彼女は何を考えていたのだろう。
 そして今、何を考えて何をしているのだろうか。ふとそのように北村は思った。
「天におわす主が、全て見ておられるさ」
 坂本は静かにそう一言。
 黒崎は何を考え、何をしているのか。神様がいればそれは知っているのかもしれないが、坂本も知っているのではないだろうか。あるいは坂本自身が、黒崎はいずれ北村に話すだろう事も見越しているのではないだろうか。北村はなんとなくそう思っていた。
 色々考えている事があるんだと、北村に告げた黒崎。観覧車の中で「兄さんには……絶対話すから。絶対」と言った時の黒崎の表情はずっと先を見ていて、なおかつ真剣な眼差しだった。
「家族……か、私は本当に幸せ者だな」
 少しおりた沈黙の後、ポツリと坂本が漏らした。北村の視線の先で、坂本は書類にペンを走らせながら、述懐しているようだった。
「40年もの間、多くの子供たちに囲まれて……孝太君と奈々子君は子供まで見せに来てくれる」
 北村は黙って聞いていたが、同時に今では知っている。坂本は独身で、当然ながら子供も孫もいない。両親はとうの昔に鬼籍に入っているし、身寄りという意味での家族はこの世界のどこにもいない。
「孝太君と奈々子君が結婚する時には、2人の父親として招いてくれた。いや、彼らだけではなく、今まで多くの子供たちがそうしてくれた」
 坂本はペンを走らせる手を止めて、書類の隅に判を押す。書類をファイルに閉じながらも、さらに言葉が続けられた。
「世界中を見ても、私くらいに幸せな人はそういないだろう。手に余るくらいの幸せで、もうこの世界には未練もないぐらいだ」
 坂本の最後の言葉には、北村も動揺が生じるのを抑えられなかった。
「先生。縁起でも無い事を」
 坂本はいつも通り優しくゆっくりと首を上下に動かす。
「はは、すまない。まだまだ主の下へは行かないさ。せめてそうだね……俊一君や美月君が結婚する姿を見る時間くらいは、主に許しを乞いたいくらいだからね」
 穏やかに語る坂本を前にすると、北村も自然と心が穏やかになるように感じる。神様がいるとするならば、それは眼前の神父のような人なのではないかと、そうすら彼には思える。
「君たち2人は本当に良い子達だ。必ず最良の伴侶に主が巡り合わせてくれるさ」
 坂本が立ち上がり、北村の肩を優しく叩く。彼は事務室の他の保育士達に向き直り、「さあ、そろそろおやつの時間にしましょう」と声をかけた。


 第7話


「なんだなんだ、兄さん。だらしがないなあ」
「しょうがねえだろ」
 秋も深まる10月半ば、短髪の北村には少し寒気の方が強く感じられるその時期、彼の部屋を見た黒崎の第一声がそれである。
 その年の7月に6年半ぶりの再会を果たした2人が、繰り返し会う内に、生活圏が重なっている事もあって、片方の部屋を訪問する方向へ話が動いた。
 もちろん何のきっかけも無しに、大人の異性同士がもう片方の部屋を訪れたわけではない。この日は、特別な意味を持っていたのが契機である。
「布団は敷きっ放し、テーブルには空き缶だらけ。冷蔵庫は空っぽって……社会人としてなってないよ」
「帰るのが遅くて、掃除とかしてられないんだよ。飯だってコンビニのカップ麺位しか普段口に出来ねえし」
 初めて彼の部屋を訪れた黒崎は、部屋のどの要素をとっても、北村の生活感をあきれるように指摘し続ける。
 北村としては憮然とした態度を取ってしまうが、社会人として好ましい私生活ではないだけに、反発は説得性を欠いている。
「園にいた頃は不良少女を説得する側だったのに、園を出ると立場が逆転するものねえ」
 ゆるくウェーブのかかった長い黒髪。その持ち主は少しキツイ目つきだが、整った顔立ちに、透き通るような白皙で美人の部類と言える。その目に皮肉の色をこめて、言葉にはしかし親しみある微笑もこめている。
「何度注意しても煙草を止めない不良中学生が、こんな優等生社会人になってるなんて思わなかったよ」
 北村は頭をかきながら、皮肉をもって返したつもりだが、こちらはどうも現状への説得性を持っていない。
「せめて女の子を部屋に上げる日くらいは、片付けておいた方が良いと思うよ。だから彼女とか出来ないんだよ、兄さんは」
 北村に交際相手がいない事は事実であり、いくら訪れる女性が、児童養護施設時代の不可思議な関係の妹分であるとはいえ、黒崎の言い分は真っ当である。
 言い返す言葉を探そうとする北村に、その時間は許されなかった。
「まあ、悪い社会人を更生させるのも、大人の務めかな」
「悪い社会人とはなんだ、悪いとは……オレのどこが」
「この私生活は社会人としては失格だね」
 おひさま園にいた時代とは、まるで立場が逆転したかのようである。かつて説教される側が、月日の経過により説教する側になるという構図が、都会の1DK角部屋において展開されている。
「まあ、この方が、ありがたみが増すでしょ」
 黒崎は弾むような声と、それにふさわしい笑みをもって部屋の片隅にいくつかの袋を置いた。その脇に北村がやはりいくつかのビニール袋を置く。
「誕生日にこんな美人が部屋に来てくれるなんて、そうそう無い事なんだから、兄さんは感謝すべきだよ」
 置いた袋からエプロンを取り出し、身に着ける黒崎。10月16日は北村俊一にとって27回目の誕生日であった。
「自分から言うと、ありがたみが薄れるぞ」
 北村はなおも反発を試みたが、心底では黒崎の言う事が的を射ており、力ない言葉が出るだけである。彼はテーブルの上の空き缶を透明なゴミ袋においやりつつ、台所に立つ黒崎に目をやった。
「うわ、これは本格的に使われていないね」
 黒崎は驚きを言葉に乗せ、フライパンなどの調理用機材を洗い始める。
 北村の部屋において使用される調理用機材とはヤカン程度のものだ。棚にはコンビニで買い置きしているカップ麺が多数並んでいる。冷蔵庫に一切の食材が無いことが、彼の私生活を物語っている。
「インスタント食品ばかりじゃ、身体壊しちゃうよ」
「オレだってスーパーの開いてる時間に仕事が終われば、料理ぐらいするさ。会社に文句を言ってくれ」
 北村は不況下で仕事が8割に減る中で、社員が5割とされる不可思議な算数の世界で生きている。会社の仕事が減ると、1人辺りの仕事量は増えるという不思議な方程式を日本国は採用しており、彼はその犠牲者である、と彼自身は述べているつもりである。
「言い訳は聞きたくありませーん」
 振り返った黒崎は、夏の遊園地に遅刻した北村に対した時と同じ台詞をもって返してきた。薄いベージュ色のエプロン、その胸には猫のアップリケがされている。
「ま、兄さんはテレビでも観て、ゆっくり待っててよ」
 黒崎の笑顔は、男心をぐっと引き寄せる魅力に満ち満ちている。「おひさま園」という施設の大きな家族として育ち巣立った彼らだが、北村としても、さすがにこういう時は異性である黒崎を認識せざるを得ない。
「ん?」
 北村の視線は、ほんのわずかばかりの時間であるが、黒崎に釘付けになっていたかもしれない。黒崎はそのような彼の様子を見逃してはくれなかった。
「あれ? 兄さん。どこ見てるの? もしかして私の胸とか? あーもー、兄さんも男だなあ」
「ば、バカ言え!」
 からかうような黒崎に、慌てて否定する北村だが、慌てる様が黒崎の言葉を否定出来ていないのが事実である。
「まあ、男の人は大きい胸が好きらしいからね、仕方ないか。うんうん、これも私の運命だね」
 黒崎が胸の左右で大きく膨らんでいるそれを、手で押し上げながら、何度もうなづいてみせる。
「兄さん。触りたいの? チャンスかもしれないよー。女の人がわざわざ独身男性の部屋にいるんだよ?」
 黒崎の表情は心底笑っているそれである。
「ば、バカいうな。お、お前はオレの妹だし」
 黒崎から視線を逸らして、映像を流し始めたノートPCのバラエティ番組を見遣る北村。からかわれていることへの不満と、男性としての欲求の複雑なコンプレックスが、その表情には明らかに表れている。
「血は全く繋がっていない兄妹だけどね?」
 北村の表情と態度を試すのが楽しいのか、黒崎はさらに畳み掛けてくる。北村は、うまい切り返しが思いつかず、首筋や頭を神経質そうにかいている。
「ふふ、兄さん。変なの」
 そう言われて北村に有効な言葉があるわけでもない。
黒崎は満足そうに首を縦に振ると、台所に並べた食材に手を伸ばした。
 それから1時間程の間に、北村の所有する調理用器具は本来の役割を珍しく果たすこととなった。
「あっ…………」
 その過程で、一度だけ黒崎が声を上げた。北村がどうしたと聞くと、黒崎は左手の人差し指を口に加えている。
「指、切っちゃった」
 まな板の上には包丁と切断過程にある野菜とが置いてある。黒崎は少し涙目だ。
「兄さん、ありがと。ごめんね」
 北村が絆創膏を出して出血箇所に当てると、黒崎は悪戯のバレた子供のように舌を出して見せた。以前、彼女がカフェでコーヒーカップに手を伸ばした際に、その行き先を誤って、こぼした時の表情に似ていた。
 そうしたアクシデントがあったものの、黒崎は北村の私生活面を説教するだけあって、その手際はよく、次々とテーブルの上に、メニューが並び始めた。
 普段なら即席麺の他にビールが1缶という、非常に簡素、悪く言えば貧相な品揃えになるのだが、この日の食卓には白いご飯、野菜の添えられた牛肉のソテー、種々の野菜の炒め物とポタージュが揃えられていた。
「兄さん、27回目の誕生日、おめでとー!」
 軽快なクラッカーの音に続いて、黒崎から祝福の言葉をかけられる北村。続けて2人は350ミリリットルの缶ビールをつき合わせて一口含む。互いに息を吐き出すと、自然と笑顔になる。
 平素、家庭的な料理に無縁の北村は、彩りと匂いのコントラストが食欲をそそる眼前のメニューに次々と箸を伸ばしていく。
「美味しそうに食べてもらえると嬉しいね」
 その様子を黒崎は満足そうに見遣りながら、自身もそれぞれの料理を口に運んだ。
 誕生日の祝い方など人それぞれなのかもしれないが、そこに相手を思いやる気持ちがあれば、祝福される側としてはその形態を気にすることもないだろう。
 彼らの誕生日会はささやかな家庭料理に過ぎなかったが、まさにそれに飢えている北村にとっては、それこそ祝福形態にこだわる必要性を持っていなかっただろう。
「……っと、ゴメン、兄さん」
 食事が始まって間もなく、黒崎の右手側に置いてあった缶ビールが、その中身のほとんど残るままに、横倒しにされた。黒崎の右手が、缶をつかみ損ね、横から押し倒したのである。
「あ、気にすんな」
 北村は立ち上がり、壁掛けされていたタオルを彼女に差し出した。
「ありがとう」
 タオルを受け取った黒崎は決まりの悪い笑みを浮かべて、こぼした液体をふき取り始める。北村はなんとなくその様子に違和感を覚えた。
 小一時間ほどで、食卓に並んだ料理は空となる。
「ごちそうさま。美味しかった」
「ううん。食べてくれてありがとう」
 北村は作り手に笑顔と感謝の言葉をかけ、黒崎は微笑み返した。
 兄さんの誕生日なんだから、全部私がやるよと言い、黒崎が食卓の上を片付けていく。台所では普段ほとんど使われたことのない食器達が役割を終え、スポンジで洗われていく。
 黒崎に促されるままに、ノートPCでニュース番組を見ていた北村だが、彼はニュースで流される情報とは別の事を考えていた。
 7月に再会した黒崎美月。10年前に素行の点で手に追いようの無かった彼女。そして、今日、自分の部屋で食器を片付けている女性。
 違和感という点で言えば、人をまったく寄せ付けようとしなかった少女が、大人になれば人懐っこい魅力ある女性になっている。それはまさにそうだが、むしろ時間の経過による成長とも言えるものだ。
 北村はそれ以上の違和感を黒崎に覚えざるを得なかった。再会した黒崎は「考えていることがあるんだ、絶対に話すから」と彼に伝えている、その何かがある。
 しかし北村が現状感じているのは、それ以外のものだ。
 10年前の少女時代。夏に会った黒崎。今日の彼女。
 ……何か胸騒ぎを覚える。
 北村はぼんやりと、しかし記憶の糸を手繰り寄せ、それらの整合を試みた。
「兄さん。片付け終わったよ」
「あ、ああ。ありがとう」
「どうしたの、さっきからぼーっとして?」
 テーブルの向こうから、黒崎が怪訝そうな視線を送ってくる。
「ん、ああいや。少し考え事をしてただけ」
 北村の回答ははぐらかすようなものだったが、特に黒崎はそれ以上の追求をしてこなかった。
 その後2人は、適当に飲み物を空けながら歓談を続けた。北村は主にビールを。お酒に強くないと言った黒崎は、ジュースを口にしている。
「ん? 携帯鳴ってるぞ」
 そうしてさらに小一時間ほど語り合っていた2人だが、その時、黒崎の携帯が振動音を発していた。テーブル上、黒崎の右手側に置いてあるデコレーションされたそれが、震えながら音を立てている。
「メールかな?」
 言って黒崎は自身の携帯に手を伸ばし、携帯のかすかに手前で右手を握った。握った手の中に何も無いとなると、黒崎はその手をスライドさせて携帯を手に取った。
「なあ、黒崎」
「何、兄さん?」
 黒崎は着信内容を確認すると、携帯を置いて北村に向き直った。北村はおもむろに立ち上がり、黒崎の右隣から彼女をのぞきこむようにして、少し間を置いて問いかけた。
「これ、何本だ?」
「……2本だよ」
 北村が黒崎の視界でいうところの右方向にピースサインを作って見せた。黒崎は一呼吸程度の時間を置いて、その数を言い当てた。
「黒崎。正直に言ってくれないか?」
「何を?」
 困惑した様子で首を傾げる黒崎。北村は続けた。
「ずっとお前に違和感持ってたんだ」
 黒崎は黙ったまま彼の言葉を聞いている。
「さっき、10年前を思い出していた」
「私がいっつも煙草吸っては、兄さんに怒られてたね」
 黒崎は笑って答えたが、北村の表情が過去を振り返って笑うそれではない事に気付き、すぐ笑い声を収めた。
「オレが孝太と殴りあった翌日、お前……さっきのオレと同じ事をしたよな?」
 10年前、北村が広瀬孝太と殴り合いのケンカをした時の事だ。彼はその日、目の下にあざを作って黒崎の前に現れた。いつもは北村が現れると「またタバコ、注意に来たの? 放っておいて」と反発する黒崎が、異なった態度を示したのを彼は覚えている。
 先ほど北村がしたのと同じように、ピースサインを作って「見えてるか?」と尋ねてきたり、「目は大事だから気をつけた方がいいんじゃない」などと珍しく声をかけてきた。当時の不良少女だった黒崎にしては、あまりにも珍しい問いかけだっただけに、印象に残る出来事だ。
「夏にランチ行った時も、右手側のカップを取り損ねて、こぼして、店員に謝っていたよな」
「…………」
 畳み掛けるように10年前、そして最近の出来事を振り返る北村。黒崎は黙って彼を見つめている。
「料理に手馴れているお前が、包丁で指を切ったり……いや、それはまだ大した事じゃないか。ありうる事故だ」
「…………」
「でも、さっきはやっぱり右手側の缶を倒して、今……携帯をつかみ損ねたよな? それも右手側に置いてあった」
「…………」
 黒崎は変わらず黙ってそれを聞いている。北村はその先の言葉を続けようとして、一呼吸置いた。出して良い言葉か逡巡したのだ。その言葉を出すためにかすかに置かれた沈黙は、互いの胸の鼓動さえ聞こえてきそうだ。
「お前、目が……見えなくなってるんじゃないのか?」
 北村は、一瞬躊躇したその言葉を吐き出した。それまで黙っている間は、特に表情を変えていなかった黒崎だが、笑みを浮かべた。ただそれは、単なる笑みというよりは、少し複雑な感情をこめられているようだった。
「うん」
 一言、肯定の言葉を口にした。うなづいた当人は諦観のこめられた笑みを浮かべていた。予期通りの答えを聞いた北村は、思わず彼女から目を逸らしてしまった。
「なんで……」
 目を逸らしたまま、黒崎に聞くというよりもまるで自問するかのように、北村は静かに声を投げかけた。
 黒崎は立ち上がって、後ろ手を組み、北村に背を向けた。また沈黙がおりる。ノートPCから流れるニュース番組のキャスターの声がより大きく聞こえた。
「私さ……子供の頃の思い出……両親に毎日殴られていた事しかないんだ」
 北村は黒崎の背を見ながら、首を縦に振った。彼はその事を知っている。黒崎は両親の激しい暴力と冷遇する親戚達との間をたらいまわしにされ、「おひさま園」に入った過去を持っている。
「顔なんてさ、腫れ上がって酷かったんだよ」
 怒りや悲しみを込めるでもなく、淡々と過去を黒崎は語っている。
「おひさま園に入った頃からかな……右目が少しずつ悪くなり始めたのは」
 そこまで言うと、黒崎はまた黙り始めた。代わりに、タバコを取り出し、火をつける。一条の煙が北村の部屋に立ち上がった。その煙を、前方の壁に吹き付けるように吐き出すと、黒崎は言葉を続けた。
「何度も目を殴られたからみたい。園を出た後からは一気に見えなくなり始めてさ」
 もう一度煙を壁に吹き付ける。黒崎は北村の方を振り返った。携帯灰皿にタバコを押し付けて火を消す。対面した北村は苦虫を噛み潰したような表情だ。
「右目、視野狭窄になっちゃってるんだ。多分……もうすぐ完全に見えなくなる、って医者で言われちゃった」
 振り返った黒崎の表情は微笑すら浮かんでいる。声も暗さはまったく無い。逆に北村は拳を握り締め、唇を強く噛み締めている。
「大丈夫だよ。左目は見えてるから。兄さんが怒ることなんて何も無いんだよ」
 黒崎の口調は母親が子供に語りかけるような優しささへ含まれている。北村は頭の中で様々な言葉を考え出し、喉まで出しかけた言葉もあるが、いずれも発露することは出来なかった。かえって、胸の中を焼くような思いがこみ上げていた。
「えっ…………」
 部屋の中に黒崎の驚きの声が小さく上がる。彼女の手から離れた携帯灰皿が床へと落ちる。
北村は、気がつけば黒崎を強く抱きしめていた。
 抱擁を受けた側は、驚きの声を上げたけれども、自然と北村の背中に自分の手を回した。
 黒崎に回された手は、強い力で彼女を抱き寄せていたが、彼女はそのような行為に及んだ青年の背中を、優しくさするようにした。
「もう昔の話だよ、兄さん」
 北村の耳には、静かに穏やかな声が入ってきた。
「兄さん。今は、もっと先が見えるから。大丈夫だよ」


 第8話


「オレは結局どうしたいんだ?」
 10月末の昼時。北村が営業回りの休憩場所兼昼食場として利用している都心の公園。彼はベンチに腰掛け、パンの袋を破りながら独りごちた。
 先週、自らの誕生日に知る事となった、黒崎の右目失明の事実。その原因が、彼女が北村と10年前に出会う事になった「おひさま園」入所のきっかけである、両親からの再三の虐待であること。
 それにも関わらず、現在の黒崎は誰も恨んでいない。間もなく片方の視力が永遠に失われるという事実を受け入れ、不平不満の一言も表わさない。
「先生の言ってた通りだ」
 北村はお盆に際して、「おひさま園」の手伝いに行った時、児童指導員である坂本神父が、黒崎の心中まで正確に見ていた事を改めて感じさせられた。彼は北村にこう言ったのだ。
『彼女は本当は親も親戚も憎んでなんていなかった』
 全くその通りだ、と北村は思った。10年前あれほど人を寄せ付けようとせず、非行に走っていた少女は、実は誰も恨んでいなかったのだ。それが自らの視力を失わせるような凄惨な虐待の経験を持っていたとしても。
 北村は坂本が黒崎について語っていたもう1つの言葉を反芻していた。
『彼女は本当に心の底から家族を欲しがっていたんだ』
 公園のベンチでパンを食べながら、その言葉を何度も思い返し、黒崎の姿を思い浮かべる。
 10年ぶりに再会した黒崎美月。ゆるくウェーブのかかった長い黒髪にキツさを感じる目つき、白皙の彼女。
 少女時代とは異なり、人懐っこい笑みを浮かべ、喜怒哀楽と表情を多様に変えては、最後に見入るような笑みを浮かべるまでに成長した彼女。
「家族だから当たり前だ……って、オレのセリフだよな」
 自嘲気味に口の端を歪めざるを得ない。かつて園にいた頃、彼は誰にでもそう言って接してきた。幼くして両親を亡くした彼にとっては、園の中の人たちが大きな家族だったからだ。
 その彼自身、黒崎美月という女性の事を何も分かっていなかったのだ。
「黒崎は、何を考えてるんだ?」
 黒崎は「考えている事がある」、そう北村に告げている。必ず話すと言っているが、それは失明しかけている事実ではない。別の何かを彼女は語っていない。事の本質はそこだろうと彼は考える。
「黒崎に比べたら、オレは本当にダメだ」
 思わず息を吐き出す。少し寒くなりつつある外気にあっては、そろそろその息は白くなる気配だ。
 パンの残りを飲み込むように口にし、ジュースで一気に流し込む。また、ふう、と息が出る。
 手帳を開き、午後の営業先を確認する。そうして営業回りを終えれば、深夜まで事務作業。翌日も翌々日も、彼のやる事は基本的に変わらない。会社のために仕事を客先から取ってくるだけだ。
「食うため、食うため……か」
 生活をするためにはお金を稼がなくてはいけない。営業職は彼が望んでなった職業ではないが、現在の日本において自分でしたい事を本当に出来ている人はどれだけいるのだろうか。
「オレは自分のしたい人生を送るんだ」
 これは小学生、せいぜい高校生くらいまでが主張を許されるレベルの話である。今の日本の実情では、多くの人間は自らの人生を主体的に選ぶ事など出来なくなっているのだ。
「好きな事でお金を稼ぎたいんだ」
 これこそ夢想である。こういう主張をする小学生には大人たちはこのように言ってくれる。
「そうね。好きな仕事が出来ると良いね」
 しかし、そう主張する大学生には、大人たちはこう言うのである。
「現実を見て。仕事はより好み出来ないんだよ」
 大人は自らの投影として、子供には夢を語る事を許すが、実際にはそのような夢など、この社会にはほぼ存在しないのが現実なのだ。
 現実は数十社という多数の会社にエントリーし、面接をし、ようやく採用が決まったところに就職するのである。自分の特性が活かせる職場など、98%の人間は選ぶ事が出来ない。
 惰性のように早朝から深夜まで働き、それでなんとか生活水準を維持できるのが、今の日本の多くの若者である。半世紀前の若者のように、働くほど報われ、歳をとる毎に給与所得が増える……などというのは、二度と戻ってこない過去の栄光である。
 給料は増えない。将来の展望も見えない。でも、同時にこう思うのだ。非正規雇用でないだけマシだ。厚生年金にも加入でき、健康保険証も交付される。そうして、少しでも自分を騙し慰めるのだ。これが多くの若者の実像である。
「オレは結局どうしたいんだ?」
 彼はまた最初の独りごとを繰り返した。
 園にいた頃の彼は、まさにリーダー格という存在だった。様々な境遇を抱え入所した子供たちに、「俺たちは家族だ」と言って、全員を束ねようとしていたし、事実そうだった。
 ところが、社会に放り出されてみれば、その日の生活のために毎日疑問を浮かべながら、深夜までボロボロになって働く自分がいる。
「黒崎は……強い。強いな」
 虐待の経験を乗り越え、今また失明の恐怖に晒され、それでも社会人として懸命に働き、笑顔を絶やさない黒崎。彼女の芯は自分などより遥かに硬い。北村はそう思わざるを得なかった。
「オレもしたい事があったんじゃないのか?」
 北村は黒崎と会う前から、自分の在り方に常々疑問を持っていた。早朝から深夜まで使い捨ての駒のように営業回りをする事に、当然疲れ果ててもいた。
 それ以上に、自分が大人になった時にこうなりたい、そういう何かがあったはずじゃないかと、彼は思っていた。その思いは、ぼんやりとして輪郭が明らかになっていない。でも、それはあったはずだと彼はよく自問自答している。
「オレは……オレは……」
 北村は間もなく冬の迫る透き通った青空を見上げた。木枯らしに木の葉が舞っている。
「多分、オレには足りていないんだ。黒崎にある強さが、オレには今、足りていない」
 北村は黒崎が自分にあと何を秘密にしているのか、この時点で分かっていない。しかし、北村・黒崎両名は社会人であり、余程の決意を必要とする何かを考え実行するには、現在の生活を捨て去る覚悟も持たなければいけない。
 黒崎が何を考えているか分からない。しかし彼女は、現在の社会的立場と生活とをあっさり捨てて、別の次元に行くだけの勇気を持っているのではないか。北村にはそう思える。
「オレは……辞められるか?」
 北村はこの6年余り、何度仕事を辞めようと思ったか、それは数えきれないほどだ。しかし、今の生活を捨てられるか、別に仕事があるのか、何をしたいのか。彼の中では決心がつかない。そもそも、何を展望とすべきか、彼は霧の中を進んでいるような感触であった。
「黒崎は何か展望でも持ってるのかな」
 黒崎が考えている何かが、もしかして自分の抱えている霧の先にある何かと同じなのではないか。北村は密かにそれすらも期待していたのかもしれない。しかし、彼はそれと同時に、10年前の黒崎の言葉を思い出していた。
『私はここに居場所なんて感じてないけど、アンタはあるんでしょ? 私に何か求めてくるなんてピントがズレてんじゃないの?』
 広瀬孝太と園内で殴り合いのケンカをした後、何故か黒崎にタバコをあげてしまった時の、彼女のセリフだ。
「ダメだダメだ。自分で考えねえと」
 北村はふと思った。10年前も今現在も、黒崎美月という存在に自分は寄りかかりたかっただけなのではないかと。
 自分の在り方は自分で決めるものだ。黒崎はそれを実行している。であれば、北村も自分自身の事は自分で決めなくてはいけないのだ。
 自分が日常に流され、目標も何もかも失っているならば、目標を取り戻し、舵を切り直すのは他人には出来ない。これは自分の事なのだ。
 気を取り直した彼は、ベンチから立ち上がり秋の乾き始めた空気をぐっと吸い込み、背を伸ばす。気持ちが少し入れ替わった気になる。
「ん?」
 その時、携帯が振動音を立てている事に気が付いた。
北村は切り替えた気持ちをまた沈ませそうになる。おそらく、上司からの定期便に違いない。
 彼が携帯を開くと、それは電話ではなく1通のメールであった。
『FROM 黒崎美月
 SUBJECT 兄さん、元気?
 TO 兄さん、仕事おつかれさまー。週末遊びに行こう』
 内容が予想の真逆であると、安堵と同時に喜びがこみあげるものである。彼は、やれやれとつぶやきながら返信した。
「オレは黒崎のヤツに背中を押されっぱなしだな」
 そう言いながら、彼の言葉は弾みを帯びていた。


 第9話


「うん。兄さんも少しは女の扱い方が上手くなったね」
 陽光の差す時間に比して、夜の深さが濃くなっていた11月上旬、街灯のともる道を歩く男女1組。緑の長い黒髪の女性から発せられた言葉に、短髪で偉丈夫の男は不満気に見える。
「こういう事を重ねると、女性のハートをゲットできるんだよ。覚えておいたほうがいいよ」
 弾むような黒崎美月の声は、それに相応しい笑みを伴っていた。
「なんか、お前にはバカにされている気がするんだよな」
 褒められた側の北村俊一としては、嘆息とともにそのような言葉が出てしまう。息はかすかに白くなり始めていた。
 彼の右腕には黒崎の左腕が絡んでおり、そうして歩いている様は、1組の初々しい恋人同士のようである。
 ただ、互いに対して……特に黒崎が彼を指しての言葉は「兄さん」であり、額縁通りに捉えるならば仲のよい兄妹である。
「園にいた頃からこうだったら、奈々子さんと今頃ゴールインしていたのは兄さんだったかもよ」
 そういう黒崎の表情は意地悪そうに見えたが、北村は不愉快には思わなかった。10年も前の思い出話であり、互いに笑って流せるだけの時間は十分に過ぎていた。
 奈々子とは北村が「おひさま園」という児童養護施設にいた時の初恋の相手であり、現在は同じ園の悪友であった広瀬孝太の妻である。
 北村と黒崎も園で多感な時期を過ごした者同士であり、この夏に6年半ぶりの再会を果たしたばかりである。
 園時代の両名は素行の悪い少女(そのような言葉で済まされる程度ではないが)を、年長者の少年が説教し続けるという奇妙な関係性を持ち続けたが、やはり月日の流れは貴重なものであるらしかった。
 成人した黒崎は、容姿の点では白皙で月を思わせる美人であり、性格の明るさは太陽のようですらある。北村は園時代の熱血漢を今も漂わせるような、肉付きのよい長身の好青年然としていた。
「奈々子さんは、オレなんか眼中に無かったよ」
「あー、ほら。自分を悪く言うのは兄さんの悪い癖」
 ただし、成人した両名が決定的に異なるのは、内面性における強さそのものだった、と北村は思っていた。
 黒崎は幼き時代の凄惨な虐待経験を乗り越え、今また過去の虐待に起因する右目の視力喪失を経験している。それすらも受け入れる強い人間性を持ちえた。
 北村は人生の目標を、茫漠たる砂漠にオアシスを求めるがごとく、さまよい流されており、日々の生活に不満を持ちつつも、半ば思考停止状態である自分自身にふがいなさを感じていた。
「ま、でも。女の子の誕生日を覚えているのは大事なことだね。うんうん」
 黒崎は北村が街角の小さなレストランで、ささやかな誕生日祝いをしてくれたことを、心から喜んでいる様子だった。3000円のバースデーコースだが、人の心を動かすのは金額ではなく、行動に伴った心なのは間違いないようだ。
「お前の誕生日は忘れるわけねえだろ」
「家族なんだからな、当たり前だ! でしょ?」
 黒崎に機先を制された北村は、口先まで出かかかっていた言葉を飲み込んで閉口せざるを得ない。彼の園時代からの使い古された言葉であり、同時に青臭いが、黒崎には心から響きよく感じられるようであった。
 家族……平凡だがなんと素敵な言葉であることか。
 彼らに共通する思いはそこにあったのかもしれない。北村は園時代から周囲の少年少女にも同じ言葉を発し続けていた。彼らが成人する以前に、捨てられた、あるいは捨てざるを得なかった言葉であるのに。
「でも、いいのかな」
「何が?」
「いや、お前の部屋にオレなんかが入って」
 彼らが向かっているのは、黒崎のアパートである。それはもうすぐ先に見えてきていた。
「お前もオレも独身だし」
 空いている左手で思わず首筋をかいてしまう北村。そのような彼の様子を見て黒崎は、彼の表情をのぞきこむ。目が合うと、ことさら作って意地悪そうな笑みになる。
「あら、兄さん。私を女って認識してるの?」
 言われると北村は言葉に詰まってしまう。月を思わせる美女と同室することで、何も感じない成人男性などいないのは当然であろう。ましてや彼ら同士は兄妹と呼び合っていても、実際には何らの血縁関係もないのだから。
「そんな事言ったら、先月の兄さんの誕生日に、私だって兄さんの部屋に行ったじゃない」
「いや、それはそうなんだが」
 一息吐いて、北村は星空を見上げた。
 少年少女時代の彼らは、精神面でも行動面でも、少なくとも表に出る分には北村の方が年長者の功があったように思えたが、今ではそれも逆転しているようであった。
「ふふ、兄さんならいいよ」
「何が?」
 北村が視線を落とした先で、少しきつい感じに見える目つきのそれと再び交錯した。黒崎が北村と組んでいる腕にさらに力を加えてくる。
「私の事、襲っても。私、絶対に抵抗しないから」
「お、おい」
 北村が慌てるそぶりを見せると、黒崎はそれを楽しむかのように悪戯が成功した子供のような声で笑った。
「冗談よ。兄さんにも女を選ぶ権利はあるもんね」
 黒崎がどれほど意識をしてそれらの言葉を出したのか、北村には分からない。しかし、彼の方としては黒崎をますます女と意識せずにはいられない。自分の事を「兄さん」と呼ぶ彼女だが、互いをそう意識する以上のところへ、この先も思いが飛ばないとは彼には確信が出来なかった。
「ま、上がって上がって。何も無い部屋だけどさ」
 そう言って招かれた黒崎の部屋は、おおよそ20代半ばのOLの部屋としては水準レベルである、そのように北村には思えた。むろん、彼はそうした女性の部屋に入るのは初めてであり、あくまで想像の域を超えないものではあったが。
 都会の隅にある1DKのささやかな空間。食器類は綺麗に棚に収められ、小さなテレビと本棚、座卓の他に、幾つかの可愛らしい小物が置いてある。カーテンレールに目を移して、思わず北村は目をそむけてしまった。彼にとってわずかに幸福で、わずかに不運なのは、黒崎は相手のわずかな行動にも気が付くというところだろう。
「あ、ゴメン。下着、部屋干ししたままだった」
 手早くそれを取り込み、たたんで収納ボックスに入れた黒崎は、手招きして北村にクッションを手渡し、座るよう勧めた。
「ふふ、兄さんよかったね。眼福ってやつでしょ?」
「い、いやその」
 再会して半年あまり。黒崎に会うたびに、北村は彼女の手のひらの上で思うままに動かされているように感じた。むろん、それが不快に感じた事はないのだが。
「ねえ、兄さん。知りたい? 知りたいでしょ?」
「何を?」
 猫が蝶を追い回す様をファンシーにプリントされたコーヒーカップを受け取った北村が、一口つけると、黒崎が問いかけてきた。
「さっきの下着。何カップか知りたい?」
 北村は口に含んだコーヒーを思わず噴き出しかけた。やはりその様子を対面で見ている黒崎は笑いかけている。
 この場合、興味が無いという成人男性はおおよそ健全であれば皆無だろうが、それをことさら聞くことも普通はないだろう。まったく、たちの悪い悪戯である。
「教えてあげるよ」
 黒崎は口には笑みを浮かべ、目は真っ直ぐ北村を見つめている。これほど男にとって意地悪な事もあるまい。教えて欲しいと言えば軽薄と笑われるだろうし、知りたくないと言えば不健全とそれはそれで笑われるだろう。
 北村がイエスともノーとも回答に詰まって、コーヒーをもう一口流し込む。回答の保留が最善の策と考えたのだ。すると、彼の予想を超えた行動で黒崎は動いた。
 座卓の向こうから身を乗り出すようにして、彼の眼前でささやくように口を開いたのだ。
「G。Gカップ」
 北村は完全に困惑した様子で、黒崎が身を乗り出した分、上半身をのけぞらせて後ろに引いた。黒崎にとって、眼前の男は反応を見るのによほど飽きない対象らしい。施設時代に、散々説教をたれてきた男へのささやかな仕返しですらあるようだ。
「よかったね、兄さん」
 乗り出した身体を黒崎が戻すと、表面だけは平静を装って北村も元の姿勢に戻った。
「何がよかったんだ?」
 北村の問いかけに、黒崎はきょとんとした面持ちになって、また直後には首を傾げて彼を見遣った。
「私のおっぱいが大きくて。兄さんとしては嬉しいでしょ?」
 嬉しい嬉しくないは、問われた男性の好みにもよるのではないだろうか。ただその点、大きいか小さいかという事に関しては、北村は胸の大きい女性が身体的に好みであったことは事実だったので、否定は出来ない。
 北村の平静さが表面上のものであることは、洞察力のある黒崎にはとうに見透かされており、彼女はさらに言葉を続けることで、彼の態度を楽しもうとしていた。それこそ、自分自身を楽しませることが、最上の誕生日プレゼントだと言わんばかりだ。
「あれ、嬉しくない? これから兄さんがそこの布団に押し倒す女の子の胸が大きいのに?」
 黒崎の言葉に、思わず彼女の胸と布団とを交互に見遣ってしまった北村としては、赤面せざるを得なかった。
「おい、バカな事を言うな。そ、そういうつもりは」
「女の子が男を部屋に上げたら、私の中ではそうされても文句が言えないって事なんだけど?」
 北村としては「おひさま園」時代の「家族」としての「妹」が、どこまでを真意として言っているのか判断が付きかねて、またもコーヒーを口へと運んだ。
「私は兄さんになら、いつだって襲われてもいいと思ってるんだけどなあ。押し倒してくれたら嬉しいのに」
 半ば北村に、もう半ばは自分自身に言い聞かせるような黒崎の態度。北村とて、そういう言葉を続けて聞かされていれば、男としての欲求の方が理性を食いつぶしそうな感覚になってしまう。
 彼がそのような行動に出なかったのは、一つには黒崎の真意がつかみきれていないこと、もう一つには園時代の「兄妹」という関係が抑制をかけていたこと、最後には彼自身が誠実に過ぎたことである。
 その後、いくつかの冗談めいた話が交わされ終わると、黒崎はそれぞれのカップにコーヒーを再度注いで、先ほどまでの表情を切り替えた。
「兄さん、夏に私が言った事、覚えてる?」
「ああ」
 北村は即答した。それは「兄さんには……絶対話すから。絶対」と言っていた、黒崎の考えている何かである。
 北村は思わずつばを飲み込んだ。緊張によるものだ。
 黒崎がつい先日まで隠していた右目失明の事実、これを上回るような何かとは何か。
 北村は先日来、色々考えてはいた。
 それは、黒崎は暗い過去を持ちながらそれを克服し、現状の困難にも強い意志力で立ち向かえる自立した個人であること。社会人としての生活をかなぐり捨てても、信じた道に進める強い女性であるに違いない事。
 逆説的に北村は、自分自身を目標も無く流される、よく言えば凡庸な、悪く言えば確立されていない人間であること。その自覚を強く持つことになった。
 自分は何がしたいんだ、その思いが黒崎との再会後に、ますます強くなっている。
 その黒崎が、今まで秘密にしていた何を伝えてくれるというのだろうか。
 黒崎は左手側の小さな本棚を覆っていたほこり避けの布をめくり、その中から、白い表紙に青字でタイトルの刻印された分厚い本を取り出して、座卓に置いた。北村は、その本を10年ほど前に友人から見せられた事がある。
「受けるのか?」
 ただ一言、北村は聞いた。黒崎は黙ってうなづいた。
 その本にはこう書かれている。「大学入試センター試験過去問題集」と。
 黒崎は、少し呼吸を整えたいのか、間を取りたいのか、座卓脇から煙草を取り出して火をつけた。
「園にいた時には、受けられなかったからね」
 黒崎は、高校卒業で社会に出て6年目になる。なお、北村は短大を出ており、黒崎同様、社会人6年目である。
 児童養護施設にいた人間は、そうではない子供たちに比べて社会に出る選択肢は非常に限られていた。4年制大学にいける割合は3パーセント前後であり、短大まで含めても14パーセント程度である。その多くは中卒・高卒のまま社会人となることが多い。
 これは、親の庇護が受けられないケースが多いことや、園には大学進学を支援するだけの財政的余裕がない事も挙げられる。
「数学とか古典とか、独学で勉強するのって大変だね」
 黒崎は舌を出して笑って見せた。主要5教科を、OLとしての仕事終了後、毎晩勉強することが、どれほど大変なことか、北村には分かるつもりである。
「さすがになかなか覚えられなくてさ、3年くらい前から、時間を作っては勉強してたんだ」
「そうか」
「もう、兄さんったら。また子供扱いして」
 北村は思わず伸ばした手で、黒崎の頭を撫でていた。そうされた方は、口にした言葉とは異なり、態度は非難めいていなかった。
「6年も働いてきたし、少しはお金もたまったから。大学に行けるかなって思ってね。今年、受けてみるんだ」
 黒崎は今日で25回目の誕生日を迎えていた。
「4年制大学でね。教育学部に行きたいんだ」
「学校の先生になりたいのか?」
 北村の知識では、教育学部とは学校の教員養成以外の道には考えが及ばない。黒崎は首を横に振った。
「違うのか? だったら……」
 北村はその先の言葉を飲み込んだ。黒崎も北村が言わんとするところは理解している。教員にならないなら、何のために教育学部に行くんだという事である。ましてや社会人の黒崎である。大学に行くという事は、今の仕事を辞めるという事である。
 現在の底の見えない日本の不況において、正社員の道を捨てるというのは、93パーセントの人間には愚かしく映るかもしれない。
 北村は黒崎の事を愚かしいなどと、毛の先ほども考えてはいなかったが、ならば何のために大学に行くというのか。何のために社会人としての地位を捨てるというのか。
「兄さん。知ってる? 坂本先生って大学出てるんだ」
 突然、黒崎が話題を転換したので、一瞬思考がついてこなかった北村だが、すぐに温厚で柔和な顔立ちの老人が視界に浮かんできた。「おひさま園」で誰からも慕われている神父のことである。
「児童指導員ってね、なろうと思ったらさ、大学で福祉・社会・教育・心理のいずれかに関する学部・学科を卒業する必要があるんだって。調べたらそうだったんだ」
 黒崎は煙を天井に向けて吐き出した。10年も前から煙草を手放せないその仕草は、もはや自然に馴染んだ動作に見える。
「小学・中学・高校、どれでもいいけど教員免許も必要みたい。坂本先生も、思えば先生って呼ばれてるよね」
 黒崎はくすっと笑って見せた。半ば自嘲気味なのは、かつて不良少女だった彼女は、あの温和な紳士を園時代に先生と呼んだことがついぞ無かったからかもしれない。
「その上で、児童福祉施設とかに児童指導員として採用されて、初めて児童指導員になれるんだって」
 黒崎は煙草の煙を再度吐き出すと、灰皿に押し付けて火を消した。座卓に置かれた北村の手に、黒崎はそっと自分の手を重ね合わせた。
「黒崎、お前」
 北村は黒崎を真っ直ぐに見つめていた。彼女も真っ直ぐに視線を返している。
「全部、兄さんのおかげなんだ。ありがとう」
 北村の視線の先、黒崎は晴れ晴れとした笑顔だった。冬の寒空に、人々が求めたくなる燦々とした陽光そのものだった。
 北村には、その陽光は少しまぶしすぎた。しかし、まぶしいくらいの光だから、霧の中をぼんやりと過ごしていた彼に、進むべき何かを照らしてくれているようにも思えた。だから、彼は言った。
「違うよ」
 北村は黒崎の手を握り締めた。
「オレの方が、ありがとう、ってお前に言いたい」
 言われた黒崎は首を横に振ったが、北村は真剣そのものだ。先刻までと異なり、今度は黒崎が頬を少し赤らめていた。照れているのか、そのような表情の黒崎も、北村には大事でいとしいものに思える。
「兄さん。私ね、ずっと思ってたことがあるの。その……10年前は、ホントにごめんね」
「いまさら謝るなって。……家族なんだから」
 この時、北村は家族という言葉に、今までとは異なるニュアンスを乗せていたが、それをまだ自覚してはいないようであった。明察な黒崎がその事に気が付かないわけがなかったが、彼女は眼前の純粋な青年の気持ちを推し量って、その事には触れなかった。触れないようにして、あえて同じフレーズで別のニュアンスもこめながら言葉に乗せた。
「あとね、私、ずっと家族が欲しいって思っていたの」
 北村はうなづき返した。夏、園の手伝いに行った北村に、坂本が言ったその言葉通りである。つまり、坂本に言わせれば「彼女は本当に心の底から家族を欲しがっていたんだ」という事である。
「だから、私……園を出てからずっと目標にしていたんだ。照れちゃうけどね、坂本先生みたいな人になりたいんだ」
 黒崎は自分で言うように照れている様子だった。園にいた頃、今は目標だという老人に対し、「うるせーな、坂本!」と反発ばかりしていた少女は、その心核は素直で純粋な人だったのだ。
「大学、受かるかも分からないけどさ。でも、私ね、兄さん、その……児童指導員になろうと思ってるの。私なんかが、おこがましいかもしれないけど……坂本先生とか河原先生みたいに……みんなのお母さんになれたらいいなって、本気で思ってるんだ」
 黒崎は、北村に自分の思いをほぼ過不足無く伝えきったようだ。一旦視線を落として、次に上げたときはすっきりした表情になっていた。
 この時、北村は、全てを打ち明けてくれた眼前の女性への対応を間違えなかった。
「…………」
「…………ありがとう、兄さん」
 互いに重ねられた唇。重ねられた時間はわずかなものだったが、当事者には十分な時間だった。
それが離れると、黒崎は最大の理解者の存在を認めて、目じりにうっすらと涙を浮かべ、喜びの乗った感謝の声を発したのである。


 第10話


「メリークリスマース!」
 赤いコーン帽を被った黒崎が、その日の夜、日本各所で多くの人が口にしているだろう言葉と共に、クラッカーの紐を引いた。軽快な音と共に紙テープが部屋に舞う。
「さ、兄さん。ケーキ食べよう。冷めない内にね」
「ケーキは冷めないだろ」
 黒崎の透き通るような白い手がナイフでもって、4号サイズのホールケーキを切り分ける。
 一人暮らしの女性の部屋に、若い男女が2人きりのクリスマス。通常ならば恋人同士と言っていい関係性が相応しいだろう。
 しかし、北村俊一と黒崎美月の2人は、多感な時期を過ごすこととなった、「おひさま園」での大きな家族における血の繋がらない兄妹という関係性を持っており、その関係が完全に変質したわけでは無かった。
 ただしこの時点で、彼ら両名は兄妹という点では、かなり微妙な関係になりつつあった。6年半ぶりの再会、大人になってからの2人が会う度に互いを認めて、信頼を置き始め、半年も経つ内に、その心情は変わり始めていた。
 黒崎は北村に自身の夢を語り、北村も黒崎の夢に打たれて、日常に流されるままだった自分を変えようと思い始めていた。
「兄さん。シャンパンの栓、固くて抜けないよー」
「どれ、貸してみろ」
 黒崎からシャンパンを受け取った北村。ケーキ同様にシャンパンも近所のスーパーで選ばれたものだが、金銭の多寡ではなく気持ちを大事にする空間が、何よりも重要であることは2人の共有するところであった。渡した側も受け取った側も、表情には笑顔が溢れている。
「わっ、兄さん、開ける前に声をかけてよ」
「たまにはオレからも驚かせてやらないとな」
 シャンパンの栓が抜けて、ビンに凝縮されていた炭酸ガスが弾ける音が部屋に響く。その音に、思わず黒崎が目を見開いて驚いた様子だ。ただし、彼女の右目はその視力をほぼ完全に失っていた。
 幼い頃、互いに経験する事の無かった、小さな空間でのささやかなクリスマス。北村は幼い日に両親を失い、黒崎は日々の虐待の中にあって経験する事の無かった、どこにでもある日常の光景。
 日常の光景……とは、どれほど値千金の言葉であることか。それを夢見て、夢だった人にとっては。
「2人きりでのクリスマスなんて初めて」
 座卓に頬づえついて、声を弾ませる黒崎。北村は黙って、しかし口の端に笑みを乗せて、それぞれのグラスにシャンパンを注ぐ。グラスに炭酸が弾ける音が上がる。
 彼らがクリスマスを経験した事が無いわけではない。「おひさま園」にいた頃には、20名ほどの子供たちと、坂本神父、河原シスターらと静かで穏やかな祝宴が毎年行われていた。
 その頃の北村は、互いに血の繋がらない、しかも様々な境遇から施設に入ることになった子供たちを、「家族なんだから!」とリーダー格のように振舞ってまとめていた。
 彼が家族という言葉をあまりに使うため、同じ園で同学年だった広瀬孝太からは、
「お前に言わせたら、人類みな家族になっちまうな」
 と、皮肉交じりだが好意的な軽口を叩かれたこともある。
 結局のところ北村は、本当の家族がいないだけに、家族を心底欲しがっていたのかもしれない。子供の心理はどれだけ強気に振舞っていても、繊細なものである。
 その頃の黒崎はと言えば、親からは裏切られ、親戚には冷たくあしらわれたためか、人を拒絶する態度を常日頃示しており、園の中では浮いた存在だった。煙草を吸う、補導されて交番へと坂本が足を運ぶことは数知れず。クリスマスの時にも渋々席についているという感じだった。
「ふふ」
 グラスを傾けた黒崎が、目を細めて小さく笑った。北村が首を傾げると、黒崎は数瞬天井を見上げてから、彼に向き直って、再度笑った。
「ちょっとね、思い出してたの」
「何を?」
「園にいた頃のクリスマス。覚えてる? 私が初めて園に来た年のクリスマス」
 黒崎の言葉に、ちょうど10年前の同じ日を思い返す北村。北村の視界には、大きな食堂に並べられたささやかな食事と、それを囲む子供たち、穏やかな表情で子供達に声をかける坂本、それと……
「私には関係ねえって言ってるだろ! 離せよ、テメエ」
「関係無いわけねえだろ。ここにいる全員が家族なんだって、毎回言わせるんじゃねえ」
「アンタ何様のつもりなのさ! ほっとけよ。私がいたって誰も良い気分になるわけじゃねえだろ!」
 食堂へと、北村に無理やり手を引かれながら連れて来られた黒崎。黒崎が北村にいつものように反発する、その頃の見慣れた光景だ。それが昨日のように浮かんでくる。北村はセピア色になり始めた当時の時間をさらに進めてみた。
「アンタには居場所があるかもしれないけど、私には無いって言ってるだろ! 1人にしておけよ。構うなよ。アンタはいつだって……」
 黒崎が言葉を続けようとした矢先に、乾いた音が1つ食堂に響いた。黒崎は起きたことを理解できないのか、呆然とした表情のまま、ややあって右頬に手を当てる。その彼女の両肩をつかんで、北村が静かに言った。
「居場所が無かったら、作ればいいだろ」
 少しの間を置いて、黒崎は何かを言いかけて止めてしまった。表情は怒っているのか、泣きたいのか、複雑なものになっていた。
 そこへ温和な中年紳士然とした坂本が、2人の背中を優しく叩いて、表情に似合った包容力を感じさせる雰囲気で声をかけた。
「さあ、2人とも。みんなでケーキを食べよう」
 黒崎は坂本に対しても何かを言いかけたが、やはり言葉に詰まった様子だった。その後は憮然とした面持ちだったが、席についてケーキをつついていた。そんな光景が、ついこの前のように北村の脳裏によみがえる……。
「色々あったな、あの日は」
 当時を振り返った北村は、そう言葉を発した。短い言葉に、それ以上の重みが乗っている。眼前の女性が長髪ではなかった頃の、笑顔が冷たいものだった頃の、遠いようで近い昔の思い出だ。
 北村の右頬に、座卓の向こう側から黒崎の白皙の手が伸びてきた。軽く彼の頬を叩く音がした。叩いた側、黒崎は視界に北村を見据えながら、どこか遠くを見ているようでもあった。
「あの時は、痛かったなあ」
 そう言って、手を戻して彼女はまた小さく笑った。
「ホント、色々な意味で痛かった。でも、今思い返すと……嬉しかったな」
 北村は少し照れくさそうに、グラスの中身を飲み干した。黒崎もグラスの中身を少し口にする。
「そうだ、兄さん。見てもらえるかな。ちょっと、こっちに来てくれる?」
 黒崎が手招きして、北村は座卓の向かい側、黒崎の隣へと移った。互いの座る場所が近くなると、それぞれの息遣いが聞こえるような位置になった。
 黒崎は本棚のファイルケースから、1枚の紙を取り出して北村に見せた。紙にはグラフと数字、いくつかのアルファベットと解説が載っている。
「センター試験の模試結果。3年間頑張った甲斐があったかな」
 黒崎は、「おひさま園」の坂本のような児童指導員を目指すべく、OLとして昼間は働きながら、独学で長い時間をかけて勉強を続けていた。その夢は再会した北村に、つい先月知らされたばかりである。
 社会人が夢を追って、安定した仕事を捨てて大学に入り、何かを目指す……今の日本社会では多くの人に愚かしい行為と映ってしまうかもしれない。北村が踏み越える事の出来なかったそれを、かつて不良少女だった黒崎は、飛び越えようとしている。
「主要5教科の平均点数が8割以上って、お前、ホントに頑張ったよな」
 自然と北村の手が黒崎の頭に伸びた。25歳の女性が、夜の限られた時間、しかも勤務後の疲れた身体で、現役の高校生や、予備校通いの浪人生達と競い合っているのだ。
「まだ本番の試験じゃないし、二次試験もあるけどね。夢には一歩、近づけたかな」
「後、2週間後か。センター試験」
「うん。ちょっと、どきどきするね」
 言って黒崎は、胸に両手を添えた。
「ホント、ありがとうね、兄さん」
「何がだ?」
「うん。ホント、だから……色々だよ」
 黒崎の返事は言葉としては曖昧だが、北村にはそれで十分にも思えた。
「夢がかなえば……私も、家族が持てるかもしれない」
 黒崎はそう言って、微笑んだ。
 小さい頃に本当の家族に裏切られた彼女。思春期に施設で全てを拒絶していた彼女。大人になってみれば、そうした施設での大きな家族の母親になる事を夢見ている眼前の女性。人は思いを届かせようとすればするほど、純粋なものになるのかもしれない。
 北村には黒崎は……この女性は、「家族」と言って「兄妹」としてきた関係性を、もう踏み越えた先の人となっていた。
 仮に黒崎や坂本が言ったように、施設時代の黒崎の心を開かせたのが北村だとするなら、成人後の彼の展望を開かせたのは、まさに彼女だった。北村は、今の生活のためだけに日々流される自分を、明確に変えようと既に決意していた。
 そうした女性が、たんなる「兄妹」などという存在で納まるはずは、もう無くなっていた。
「お前なら、夢じゃない。夢じゃないよ」
「兄さんに言ってもらえると、心強いな」
 いつの間にか、黒崎を見つめる北村の視線は真摯なものになっていて、黒崎の北村への眼差しも自然とそうなっていた。
 そこから、互いに交わす言葉が途切れた。ただ、互いを見つめる視線はそのまま。そうする内に、お互いの胸の高鳴りが、その鼓動が聞こえるように感じられてきた。
 本棚の上に置かれた時計の秒針が進み、やがて分針が進む。今までに2人が感じたことの無い沈黙と時間が経過していた。
「…………」
「…………」
 どちらから動いたのか、ほぼ同時に動いたのか、お互い分からなかったが、2人の唇が重なり合っていた。
 北村の体重がやや黒崎の側に移り、そうされた黒崎の側はその動きに抗うことも無く、カーペットに押し倒される。自然と北村が黒崎に覆いかぶさるような体勢に移った。
「…………」
 2人の間に、また沈黙が訪れる。今度は黒崎の上から北村の視線が彼女のそれと交差する。また2人は唇を重ね合わせた。それも、今度はかなり深く、長く、互いの息遣いが荒くなるほどに絡み合うキスを交わした。
「はあ、はあ……兄さん」
 唇が離れたとき、黒崎の頬は上気して赤みを帯びていた。北村もそのようになっていた。
「あっ…………」
 2人の唇がまた互いを求め合う。今度は北村の手が彼女の服の下に強引に入れられる。そうして衣服の上からでも分かる程の黒崎の豊かな胸を、荒々しくもみ始めた。
「黒崎…………」
「兄さん……っ」
 そのような行為を重ねている内に、北村のもう一方の手は黒崎のスカートの中に伸ばされ、彼女の秘部を、これも本能に任せるように愛撫し始めた。
 そのような間も、互いの唇を激しく求める行為は止むことが無く、行為を重ねている内に、次第に黒崎の上着が、スカートが、北村のシャツにズボンが彼らの脇に置かれ始めた。
「に、兄さん…………」
 黒崎が荒い息遣いの中、彼に恥ずかしさで上ずるようになった声をかけた。
「私……は、初めてなの。男の人と、キスもその……こういう事も」
 普段は快活な黒崎の声が、消え入りそうな程に小さいものになっている。北村は今一度唇を重ねてから、こう言った。
「オレも初めて。というか、オレだってキスも何も、お前以外とは」
 北村の言葉も、恥ずかしさが混じっているのか上ずって聞こえる。
 また少し沈黙が降りたと思えば、先ほどまでよりも激しく、互いの身体を求め始めた。黒崎の声が何度も上がる。いつしか、互いを覆っている物は無くなっていた。
「黒崎……」
「うん、いいよ。兄さん。ただ……1つだけお願いしていいかな」
 北村と黒崎が、互いの欠けた部分を初めて繋ぎ合わせようとするその時、黒崎の瞳は少し潤んでいた。
「黒崎……って呼ばないで。もう、名前で呼んで。ずっと……そうして欲しかった」
 哀願するように言葉を紡いだ黒崎。
「美月」
「…………俊一」
 互いの名前を呼び合った、それが最初の時だった。
 それぞれの思いが行為となって交差したこの時になって、北村から彼の人格の根幹である誠実さが、にわかに躍り出てきた。
「美月、オレ、初めてで、その……ゴムとか持ってない」
 言われた黒崎は、目を瞬かせたが、すぐに笑顔で返した。雰囲気のまま雪崩れ込む行為の中に、誠実さを失わない彼の姿は、黒崎にはたまらなく、愛しくて嬉しいものだった。
「いいよ。俊一なら。俊一との子供なら、私、欲しい」
 黒崎は少し姿勢を浮かせて、北村と唇を重ね合わせた。それが合図かのように、互いの身体を繋ぎ合わせる。微かに黒崎の身体の中に抵抗感を感じた後、北村は繋ぎ合わせた身体を激しく動かし続けた。黒崎も全身で北村を求め続けた。やがて互いの身体の内から言い知れないものがこみ上げ、北村は黒崎の中にそれらを放出し、黒崎は北村の腰に足を絡ませ、余韻に浸りながら、それを受け止め続けた。
 時計の分針が180度も回らない内に、互いの初体験が終わり、生まれた時の姿で抱き合ったまま、黒崎は嬉しそうに北村の横顔を見つめていた。
「ありがとう。俊一」
 黒崎が北村の頬に、軽く口づけした。北村も、「兄妹」の一線を越えた、大事な女性に口づけを返した。
 2人の関係には、互いの信頼関係などという枠組みを超えた、愛情が育まれていて、この夜はそれを証明する記念すべきものとなった。


 第11話


「俊一に、私と来て欲しいところがあるんだ」
 そう北村が黒崎から言われたのは、年が明けてからの事。センター試験終了の日に黒崎から受けた電話でである。
「センター試験? ふふ、結構好感触だったよ」
 その声は弾んでいて、実際にそうだったのだろうと北村も確信している。あれだけ努力をしてきた彼女が、報われない事などない、という思いもある。
 ともあれ、センター試験の翌週土曜日、北村と黒崎の2人は、都心部から電車を乗り継ぐこと3時間余り、さらにバスを乗り継いでいた。北村にとっては、山奥の見知らぬ土地である。雪が深々と降っており、ほとんど車も人も通らないのか、道は新雪に覆われていた。
「行き先は……行ってから教えるよ」
 これほど曖昧な回答も無いだろうと思ったが、ともあれ北村は黒崎に言われるがままについて来た。
 雪の降る日は音が無い。静まり返っている。山奥の寒村では余計にそうである。バスを降り、北村の前を歩いている黒崎は、この寒村に入ってから一言も発していない。北村も、声のかけづらさを感じて、特に何かを話そうとはしなかった。
 歩いてしばらく経つ内に、山の奥へと階段が続いているのが見えた。この日、誰も利用していないのだろう。この階段には足跡一つ無い雪が積もっていた。山の上まで、一歩一歩を慎重に踏みしめながら歩く。黒崎のその歩みは、雪道を警戒しての慎重さではなく、何かを決意しながら歩き出しているようにも見えた。
 階段が途切れると、右手側に水道がある。凍結防止用の小型機器が導管に接続されている。その脇には数個の桶とひしゃくが置かれていた。
 黒崎は雪をのけると、桶に水を汲んでひしゃくを手に歩み始めた。その先には、雪で白く覆われた無数のオブジェが並んでいた。
「お墓」
 北村は思わず口にした。雪でひっそり静まり返った、山中の墓地。雪の明るさが照り返すような中で、入口から最も奥まった所、低木が影を作って、ひっそりとたたずんでいる小さな墓石があった。
 その墓石の前に立った黒崎は桶を置くと、墓石に覆いかぶさっている雪を払う。そして、コートの中から煙草を取り出した。
「…………ふう」
 黒崎の癖だ。何かを考えたり、何かを話そうとするとき、彼女は煙を吹き付けるように吐き出すのだ。煙が、墓石に当たり、霧散する。
 数回それを繰り返すと、ひしゃくに水をすくって、墓石にかける。そうしてまた、煙草の煙を吹きつけた。
 墓石にはこう書いてある。
『黒崎家』
 いつもよりも長い時間、雪の降る中、煙草を吸い続ける。何度も何度も、墓石の前で煙が霧散している。まるで、何かと対話をしているように。それが短くなり、限界点近くまで吸い続けて、携帯灰皿に押し付けて消した。
「ここさ、お墓なんだ」
 黒崎は後ろに立つ北村に振り返ってそう言った。表情は、どこか遠い目をしているようだ。
「紹介するよ。私の、両親」
 黒崎が顔だけ墓石に向ける。両親だと紹介したそれは、何も語ることはない。
「5年前にね、交通事故だったんだって」
 黒崎の両親。北村は知っている。その存在が、黒崎美月という女性にとってどういうものであったのか、知っている。彼にとっては、それだけ許しがたい存在であることも自覚している。
 幼い頃の彼女に虐待を繰り返した両親。虐待の末に、黒崎の右目の視力を永遠に失わせた大人たち。
 児童養護施設「おひさま園」に入った中学生当時の黒崎、彼女の人間不信を作り出した無責任な父親と母親。
 最後まで「家族」を欲しがっていた彼女の期待を裏切り続けた人間達が、その石の下に眠っているのだ。
 25歳になった黒崎は、しばらくの間、その墓石を黙って見つめていた。睨みつけるでもなく、悲しむでもなく、言いようのない表情で。
「夫婦一緒に逝けたんだから、それなりに良い人生だったんじゃないかな」
 再度、北村に向き直った黒崎、浮かんでいたのは微笑である。皮肉とか怒りの裏返しとか、そういうものを全く含んでいない、純粋な笑みである。
 北村は黒崎の表情に、どう返すべきか、言葉も表情も作り方に悩んだ挙句、結局無言で立ったままである。
「俊一、怒ってるの?」
 北村の両頬を、黒崎の手が包み込むように覆った。冷たいが、温かい、そういう手だ。
「もう昔の話だよ、俊一」
 その言葉を北村は一度聞いている。昨年10月、北村の誕生日に彼女の口から出たものだ。
 黒崎の右目失明の事実が発覚し、それが過去の両親の虐待に起因していた事で、彼が義憤に駆られた時の事である。その時と唯一異なるのは、彼に対する第二人称が「兄さん」から「俊一」となった事である。
「俊一、私と出会えて……幸せ?」
 黒崎の視線が、北村の目を下から覗き込む。北村はうなづいた。
「幸せ」
 その答えに黒崎は満足そうに首を縦に振って、穏やかな笑みを浮かべた。
「私も幸せ」
 北村は黒崎の右頬を撫でた。彼女の視野はもうそこには永遠に及ぶことは無い。黒崎は左目でウインクをした。
「右半分が見えないだけだよ。おかげで、俊一と私は出会えたんだよ」
 黒崎の声は嬉しさで弾んでいるようにも感じる。しかし、北村は瞳を閉じて硬い表情だ。
「俊一が怒る事は何も無いんだよ。私は、俊一に出会えたこと、俊一が教えてくれたこと、もうそれだけでこぼれ落ちそうな程、幸せで一杯なんだ」
 まだ瞳を閉じたままの北村。彼の唇に温かい感触がした。目を開けると、黒崎の唇が重なっている。
 黒崎は重ねていた唇を離すと、思い出すように言葉を出した。
「俊一、10年前に言ってくれたよね。『居場所が無かったら、作ればいいだろ』ってさ」
 黒崎は北村の両頬から手を離して、後ろ手に組み、首を小さく傾げた。視線は変わらず、北村を覗き込むようである。
「それが私の目標になったんだ。だから、今の私がいるんだ」
 黒崎は再び墓石の方へと向き直った。そして、頭を下げて一礼した。雪の静寂が辺りを包み込む。
 重みに耐えかねた枝から、雪が落ちる音がした。
「オレは……やっぱり許せない」
 北村は墓石の下に眠る大人たちに向けて、明確な言葉を紡いだ。黒崎は下げていた頭を上げて、少しだけ墓石を黙って見ていたかと思うと、振り返っていきなり、北村に抱きついた。
「そういうところも含めて、俊一の事が好きだよ。あなたの真っ直ぐなところが、私は、本当に大好き」
 北村は黒崎の背中に手を回して抱きしめた。彼女は北村の胸に頭を押し付けた。
「今日は報告に来たんだよ」
 ぽつりと黒崎が漏らした。顔を上げて、また彼を見上げる。
「お父さんとお母さんに。私の家族になってくれる人がいるって、伝えてあげたかったんだ。私にはもったいないくらいの人だけど」
「美月」
「それだけじゃなくて、数年後には大きな家族のお母さんにもなれそうだって、それも伝えたくて。見守っててねって伝えたかったんだ」
 人はどれほどの苦悩の上に、これほどの純粋な気持ちを得ることが出来るのだろう。北村は友人の言葉を思い出した。
「奈々子は太陽のように温かくてカワイイ。黒崎は逆に月の様に美しくなってる」
 彼の一番の親友である、広瀬孝太の言葉だ。北村は思う。これほど暗い世界にありながら、まぶしいほどの心の輝きを持つ女性。これが月でないとすれば何であろうと。そしてさらに思う。これほど温かい心の持ち主が、太陽でなくて何であろうとも。
「お父さんとお母さんがいたから、私はここにいる。俊一と出会えた。人生の目標を見つけられた。私は出会えた人、全員に感謝したいんだ」
 北村は以前もそうであったが、彼が父とすら思って尊敬している、坂本神父の言葉をまたも思い出した。
「彼女は本当は親も親戚も憎んでなんていなかった」
 不良少女だった時から、彼女はこうだったのだ。その感情を表現し行動する方法を、10年前は知らなかっただけだった。
 黒崎は北村から離れると、背を伸ばして彼の頭にうっすらかかっている雪を払った。そうして自分にかかった雪も払って、今度は大きく息を吸い込んで背伸びをした。
 もう一度、墓石に向かって一礼し、頭を上げると手を左右に振った。
「お父さん、お母さん。私、もう行くね。もっと先の方へ、進んでみるよ。ありがとう」
 そう言って黒崎は、桶とひしゃくを手にとって、来た道を戻っていく。北村は少しだけその場に留まって、墓石を見ていた。
 黒崎が許した両親がそこに眠っている。黒崎と自分を引き合わせた大人たちがそこにいる。こみ上げる感情は、やはりまだ複雑なままだ。
 見ている内に、水に濡れた墓石から、湿った雪が落ちた。涙だと思うのは、あまりにロマンティスト過ぎるだろうか。
 北村は墓石に一礼すると、階段の手前で、おそらく温かな微笑を浮かべているに違いない、黒崎の後を追いかけた。


 第12話


「…………」
「…………」
 2月も中頃を過ぎたその日、北村俊一と黒崎美月は座卓を挟んで向かい合っていた。黒崎の部屋の中には、期待と不安が入り混じった空気が流れている。
「どきどきするね」
 黒崎の言葉に、うなづく北村。彼らが向かい合っている座卓の上には1通の封筒が置かれていた。
 黒崎はペーパーナイフを持って、封を切ろうとするが、何度目かの逡巡を繰り返していた。
「うーん、やっぱり緊張する」
 OLとして働きながら、児童指導員となるべく大学への進学を志した黒崎。年初のセンター試験、そして続く二次試験。それらを通過して、彼らの目の前には1通の封筒が届いたというところだ。
「俊一、お願い」
 そう言って黒崎がナイフの握られていない左手を差し出してくる。北村は両手でそれを握り締めた。
「俊一の手、温かいな」
 それまでの緊張した面持ちから、白皙の顔に安堵の笑みが浮かび上がる。
「よし、開けてみる!」
 黒崎は北村に握り締めてもらっていた手を離すと、封筒を手にし、ナイフで封を切った。中には1枚の紙が入っている。単なる紙ではない。彼ら両名の夢への階段に差し掛かるための、大事な1枚なのだ。
 黒崎はその紙を取り出して、三つ折に畳まれたそれを目をつぶって開いた。
「俊一、何て書いてある?」
 黒崎は目をつぶったまま、印字された面を北村の眼前に突きつけた。北村の目には一番下の段に書いてある文字がはっきりと映っていた。
 未だ目を硬く閉じたままの黒崎。北村は黒崎の左手に自分の右手を伸ばして、握り締めた。黒崎の身体が一瞬こわばるように動いた。
「俊一?」
 不安の入り混じった声を発した黒崎に、北村は静かに応じた。
「合格」
 その言葉が発せられた後も、まだ目を閉じたままの黒崎。北村は次には興奮気味に彼女に言った。
「美月、合格だよ。合格、おめでとう」
 その言葉に、目を開ける黒崎。印字面を今度は自分に向けて、何度もその記載内容に目を通す。
「俊一、私……夢を見てるのかな?」
 黒崎の視線は少しさまよう感じで、声は抑揚に欠けていた。北村は座卓の向こうから身を乗り出して、黒崎を抱きしめた。
「夢なわけあるか。はっきり書いてあるだろ。合格って」
 北村が抱擁を解くと、黒崎は数回瞬いて、再度合格通知を見遣った。彼女の志望した4年制大学、その教育学部へ合格した旨が記載されている。
「私……合格……しちゃったんだ」
 高卒で社会に出て6年目。自分が両親に捨てられて10年。児童養護施設で不良少女時代を過ごした5年間、施設の大きな家族の母親を夢見て3年間。彼女の中に様々な思いが去来したのか、合格通知を手にした彼女は、まだその現実を夢物語のように感じているようだ。
「これで、第一歩じゃないか」
 北村の弾むような声に、黒崎の瞳が遠くを見つめるものから、近くに焦点を取り戻す。表情は口の端に微笑からやがて大きな笑顔がこぼれて、瞳からは知らない間に涙が零れ落ち始めた。
「ホント、ホントにホントなんだ!」
 黒崎はこみ上げる思いに耐えかねているのか、首を何度も横に振った。長い緑の黒髪が、喜びを伝えるかのように激しく振れる。
「俊一、ありがとう」
 目じりから零れる涙を何度も手でぬぐっては、北村への感謝の念を伝える黒崎。
「違う。美月はオレと再会する前から、ずっと独りで努力してきたじゃないか」
 北村は再度、座卓から身を乗り出して、黒崎を抱きしめた。黒崎も北村の背に手を回してくる。
「ううん、俊一が……あの兄さんだった時に、私の居場所を作ってくれたから……」
 両親の虐待、虐待による右目の失明、親戚からは見捨てられ、「おひさま園」に入所し、社会へ巣立っていった黒崎美月。警察に補導される事は数知れなかったかつての不良少女は、自らの夢へ歩み続けることを止めなかった。
 その彼女を受け入れた「おひさま園」、そして彼女を「施設の中の大きな家族」として真っ直ぐな心で受け止め続けようとした、北村俊一。
「違う。お前が……お前だったから出来たんだ」
 2人は社会に出てそれぞれの道を歩んでいた。
 北村俊一はその日の生活のためだけに、展望も無い仕事に流される日々、そこに疑問を感じながら、98パーセントの社会人と同様に、自分の行く末について、完全に思考停止をしていた。
 黒崎美月は日々に流されること無く、いつか自分が児童指導員として、家族を失った子供たちに「家族」を作る事を夢見続け、努力をし、そのスタートラインに立ってみせた。
「オレは……お前に再会出来なかったら、ただの意気地なしで終わってた」
 北村は黒崎との再会から7ヶ月余り、彼女の生き方、心の強さに打たれていた。その間、自らを省み続け……彼は既に自分の生き方を見出し、決意していた。
 黒崎は自分を抱きしめてくれた青年を、顔を上げ見やった。そこには彼女の心を受け止め続けてくれた、かけがいの無い人の、誠実さに満ちた視線がある。
「ううん、違う。俊一が意気地なしなんて、そんな事、無い。俊一は、いつでも私を家族として愛してくれた。私の心は……俊一と会えなかった6年間も、ずっと、ずっと、あなたに支えられてたんだ」
 心に穢れの無い女性、それはまさに黒崎美月という女性を指しての言葉ではないだろうか。北村には彼女の存在はまぶしいものであり、同時に自分の半身として欠かせない存在であった。互いの身体を重ね合わせて愛し合ったあの晩、いや、それ以前から彼女は彼にとっても最早無くてはならないものとなっていた。
「オレも、美月に支えられてる」
 北村を見上げる黒崎から、さらに数条の涙。彼らにそれ以上の言葉は必要なかった。ただ、互いの唇を求める事だけが、必要と感じられた行為だった。
 互いの抱擁を解いたとき、黒崎は目じりの涙を払うと、笑顔になった。
「ふふ、これで会社に退職届を出さないとね。25歳で大学生かー。周りから見たらオバサンだね」
「大学生から見たら、美月は憧れの的だろ」
 純真な心に、透き通るような肌、男なら思わず視界に入れてしまう豊かな胸といい、高校上がりの大学生にとっては、これほど魅力的な大人の同窓生もいないだろう。
「ん? 俊一、もしかしてー?」
 黒崎がいつものように闊達で、そして小悪魔的な笑みを浮かべ、首を傾げる。
「私が他の若い男の子に取られるって思ってる?」
「ば、バカ言え!」
 慌てる素振りの北村に、一層黒崎の笑みに拍車がかかる。こういう時、いつでも黒崎は北村の上を行って、彼を翻弄するのだ。
「ふふ、大丈夫。俊一より魅力的な男なんて、この世にいるわけないもの」
 北村は翻弄された事によるものか、気恥ずかしさからか、思わず黒崎から視線を外してしまった。黒崎は回りこんで北村の視線と合わせようとする。
「それよりも、俊一よ。私が大学に行ってる間に、他の女とできたりしないでよね」
 黒崎が北村の頬にキスをする。
「それこそバカ言うな。お前以外にオレと付き合うなんて奇特な女がいるわけないだろ」
「浮気なんてしたら、承知しないぞ。私の初めてを奪ったんだから、責任とってもらわないとね」
 言われて北村は頬が上気するのを感じた。クリスマスの日の出来事。いや、それから何度か重ね合わせた互いの身体。だが、その事を思い返すと、なんとも言えない思いがこみ上げてしまう。これは北村自身の未成熟さゆえというより、彼自身の誠実さゆえのもので、非難されるものでもないだろう。
「ふふ、でも、本当にありがとう。私、絶対に坂本先生みたいな人になってみせる。ううん、そうじゃなくても、私なりに沢山の子供達に言ってあげるんだ。『当たり前だ、家族なんだから』って」
 黒崎が言った言葉、施設の子供達、大人から見捨てられた血の繋がりの無い全員に、かつて北村が何度も言い続けた言葉だ。「当たり前だ、家族なんだから」と。
 本当の家族を夢見て傷ついた彼らに、北村が何度もかけ続けた言葉。そして、その北村自身も欲して止まなかった家族という存在。黒崎は、それを目標にここまでたどり着いた。
「ああ、美月ならなれる。なれないわけがない」
 北村は黒崎にそう言いながら、既に自身の決意をそろそろ彼女にも周囲にも伝えようと考えていた。


 第13話(最終話)


 まだ寒さがあるとはいえ、春の到来を真近に控えた3月初旬。黒崎美月は大学への入学手続きを済ませていた。
 勤めていた会社へは既に退職届を出しており、3月締めまでは有給休暇を利用して、勤怠表が4月分に切り替わる段階での退職となる。
 そんな3月、春の息吹がそこまで聞こえている日曜日に、黒崎は北村の部屋を訪ねていた。退職と入学手続きを済ませた報告のためにである。
「さすがに6年近くも勤めた会社だから、何も感じないわけじゃなかったけどね」
 紫煙をくゆらせながら、そう語る黒崎の表情には何らの迷いも無い。高卒から働き続け、そして児童指導員になるために退職、大学への入学を決意した女性の誇りにも満ちた姿勢がそこにはある。
「これから4年間……大学を出るときには29歳か。ふふ、私なんかの旦那さんになってくれる人はいるのかな?」
 天井に煙を吹き付けて、表情をほころばせる。北村は当然のように言った。
「オレは待ってる」
 喫煙者ゆえの配慮か、北村に横顔を向けていた黒崎は、ただ黙ってうなづいた。2度も3度もうなづいた。
「うん。私も、待ってる。私が大学を出たら、俊一はもう31歳か。あー、三十路超えだね」
 そう言ってコロコロと笑う。北村はわずかに憮然とした表情になった。
「そういう美月だって、その時には三十路手前だ。お互い様だ。大体、三十路を変に意識してもらいたくない」
 三十路はまだ社会的には若いラインだろうが、20代を若者と表現するときに、30代は若者というには微妙な響きを持つのも確かだ。
「そうね。お互い様。つりあってるかもね」
 そう言って黒崎は楽しんでいた煙草を携帯灰皿に押し付ける。テーブルに置かれた箱から、新しく1本を取り出してまた火をつけた。煙をまた天井へ向けて吹きつけるように吐き出す。
 北村に向けられた黒崎の横顔は右半分。北村からは眼前の黒崎が明瞭に見えているが、黒崎から北村は一切見えていない。彼女の右目の視力は永遠に失われた。
「4年後……その後か、その後、私を受け入れてくれる児童養護施設があれば……私はお母さんになれるんだなあ」
 黒崎の夢は児童指導員になること。家族を失い傷ついた大勢の子供達の「家族」になること、大きな家族の「母親」になること、それが彼女の夢だ。
 かつて彼女自身が、そして彼女の向かいに座る北村自身が手に入れることの出来なかった「本当の家族」、それでも彼らが手に入れることの出来た「大きな家族」、それを夢見て止まない子供達と共にあること、それが黒崎美月という女性の夢であり、彼女はそこへ向かって歩み続けている。
 彼女の右目は永遠に物を映すことは無い。彼女に凄惨な虐待を繰り返した両親、その虐待が彼女の視界を奪ったのだ。しかし、彼女の視界は何よりも鮮明に先のものを捉え続けていた。
「ふふ……みんな、私の事を何て呼ぶんだろ。先生かな? それとも、お母さんって呼んでくれるのかな?」
 黒崎の笑みは太陽のように温かい。おぞましいまでの過去の記憶と向き合って、そうして育った彼女は北村にとってかけがえの無い存在である。
「美月」
 北村は一度呼吸を整えてから、彼女の名前を呼んだ。呼ばれた側は、顔だけこちらに向き直った。手にした煙草からは煙がゆらゆらと立ち昇っている。
「何? 俊一」
 左目の視界でかすかに眼前の青年を捉えた後、彼女はまた横を向いて煙草に口をつけた。壁に向けて煙を吹き付ける。何かを考えたり、間を置く彼女の癖だ。
「オレも、今の仕事。退職届を出してきた」
 その言葉に、わずかな沈黙が降りた。黒崎は口に煙草を加えたまま、壁の方を向いている。数瞬の後、また彼女は煙を壁に吹き付けるようにした。
「美月と再会してから、ずっと色々考えていた」
 北村は言葉を紡ぎ始めた。
「オレはずっと流されるだけだった。何かを考えていたし、目指していたはずなんだ。でも、普通の社会人としての生活を捨てる勇気が無かった」
 黒崎は黙ったまま、一語一語を噛み締めるように出し続ける青年の言葉を聞いている。
「毎年のように「おひさま園」に行っていた。だから……いや……きっと園に自分がいた時からずっと考えていたんだ。ようやく、分かった」
 黒崎の吐き出した煙が、壁にぶつかって霧散した。再度煙草を加えると、先端が赤く染まった後に、また紫煙が上る。
「オレ、「おひさま園」で働かせてもらう事にした。一応短大卒だし、児童指導員は無理でも、保育士資格は取得できる。取得すれば、保育士になれる」
 黒崎は目を閉じている。自分をかつて受け入れ、そして自分の道標となった男の言葉を、ただ無言の内に受け入れている。
「オレは……美月と一緒に家族を作りたい」
 北村の言葉に、より一層の力が入った。
「2つの家族を、美月と一緒に作りたい」
 黒崎は閉じていた目を開けた。再度、壁に向けて煙を吐き出す。
「美月……オレに、お前を支えさせてくれ。お前を一生支えて生きたい」
 北村の、これが正式な黒崎へのメッセージであった。児童養護施設での大きな家族の父親と母親になること。また、2人とその間に生まれてくるだろう子供の、両親になりたいこと。その2つをこめた、明確なプロポーズであった。
 黒崎は、目を閉じた。数秒の後、目を開けると紫煙を壁に吹き付ける。そして、携帯灰皿を取り出して、まだ半ばまでしか吸っていないそれを押し付け消した。
「…………」
 黒崎はその後、テーブルに置いてあった箱を手に取った。その中にはまだ半ダース程の煙草が入っていた。
「うん」
 黒崎は一度うなづくと、箱を握りつぶした。それをゴミ箱へ向けて投げ入れる。北村の瞳が少し大きく開かれた。「おひさま園」入所時から……中学時代の不良少女だった時からずっと、手放せなかった煙草、それを握りつぶしたのだ。
 黒崎は北村に向き直った。清々しいまでの笑顔がそこにある。3月初旬。凍てつくような寒さから、陽光の優しさに人が誘い出される陽気、それそのものを連想させるような笑顔。
「ようやく……踏ん切りがついたよ、俊一」
 彼女は言った。煙草を投げやったゴミ箱を一瞥し、再度北村に向き直って、彼女は言った。
「最後の1箱……この先もね」
 北村は、黒崎が煙草を手放さなかった意味を理解した。そして今、彼女が煙草を手放した事の意味も理解した。
「俊一、私達……素敵な家族を作れるかな?」
 北村は大きくうなづいた。
「当たり前だ」
 黒崎も大きくうなづいた。そして、透き通るほどに白い手が、北村の手を握った。
「家族って……素敵な言葉だね」
「何でそう思う?」
 北村は当然分かっていたが、それでも聞いてみた。
「だって、温かいもの」
 北村にとっても、黒崎にとっても、それで十分通じる言葉だった。
 かつて本物の家族を失い、あるいは捨てられた者同士が、それだからこそ理解できる「家族」という言葉の意味。彼らはこの日、本当の家族へと歩み始めた。















































「ああ、そうだ。そろそろ来るはずだから迎えに出てくれないかい?」
 老紳士然とした穏やかな声が職員室の奥からかけられた。
「分かりました、坂本先生」
 呼びかけられた側は、職員室を後にして玄関へと向かう。玄関の前に立って数分後、車が横付けされ、市の児童福祉員が彼にいくつかの書類を手渡し、説明をした。
 車の中からは、小学生になるかならないかの男の子が降りてきた。腕には無数のあざ。その表情は不信に満ちているようだ。
「裕樹君だね。こんにちは」
 エプロンをつけた三十路過ぎに見える男が声をかけても、挨拶が返されない。男の子は地面を見つめている。
「それでは、後はよろしくお願いします」
 児童福祉員が一礼して、その場を立ち去る。男はその男児の手を優しく握った。握られた側は最初、全身をこわばらせたが、少しためらいをおいて、その手を強く握り返してきた。
「祐樹君、さ、みんなが待ってるよ」
 男にそう言われた男児は、初めて彼の顔を見上げた。
「みんな?」
「そう、みんな」
 男の笑顔に、少し緊張が解けたのか、男の子は手を引かれながら玄関へと向かった。開けられた玄関の先には、緑の長い黒髪が似合う女性が、闊達で明るい笑顔で待っていた。
「祐樹君、こんにちは」
「こ、こ……こん……にちは」
 男児は小さな声だが、初めて挨拶を返した。
 男児が見上げると、女性の白皙の肌が綺麗に映えている。その手の中には静かに寝息を立てている乳児がいた。どことなく、抱き上げている女性の面影を感じさせる。
 彼女の後ろの方では、子供たちが遊びまわっているのだろう。楽しそうな声が聞こえてくる。
 玄関に立つ男児には、不安以外の表情も若干だが見えたように感じた。どんな経験を持っていても、誰もが持ちたいものがある。どんな経験を持っていても、人間は孤独には耐えられない。
「えっと……先生……の……名前……は……」
 消え入りそうな声で男児が問いかけた。太陽のように温かい微笑を返して、女性は応えた。
「私は北村。北村先生とでも、美月先生とでも言いやすい言い方をしてくれるといいな。あ、お母さんって呼んでくれてもいいんだよ」
 男児は手を引いてくれていた男を見遣った。北村……と名乗った女性が抱きかかえる乳児に、これまた少し面影が重なって見える。
「ゴメン。自己紹介が遅れたね。オレも北村なんだ。北村が2人だとややこしいかな。オレは俊一先生とでも、彼女は美月先生とでも……名前で呼んでくれていいよ」
 男児は3人をそれぞれ見遣った。誰もが求めて止まない光景がそこにあるように見えた。
「ここではみんな家族だから、何も遠慮することはないんだよ」
 北村俊一が身をかがめ、男児の視線に合わせて優しく言葉をかける。
「そうそう。この子は私達の家族。向こうで遊んでいる子達もみんな家族なんだからね」
 乳児を抱えたまま、北村美月も座って男児の視線に合わせて微笑みかける。それで目が覚めたのか、乳児が北村俊一の前髪を引っ張り始めた。
「いててて……武司、痛い痛い」
「わんぱくなトコは俊一似だから仕方ないねー。可愛さだけは私に似たのになあ」
「いやいや、こういう風にオレを困らせるのは、間違いなく美月に似ただろ」
「ほら、武司。新しいお兄ちゃんだよ。挨拶しなさい」
 美月が乳児を祐樹の前に差し出すようにすると、武司と呼ばれた乳児は無邪気な笑顔を浮かべた。祐樹が恐る恐る手を伸ばすと、乳児は笑顔だけでなく、声に出して喜びを表現した。
 祐樹の表情に、初めて笑顔に近いものが差してきた。
 北村俊一と美月は互いに顔を見合わせ、うなづき返した。そうして祐樹に対して靴を脱いで上がるように勧めると、互いが互いに同じ言葉を彼にかけた。

『今日からここが君の家だよ。おかえりなさい』


【完】


【おかえりなさい】 - まとめ読み(全13話完結) -
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