【おかえりなさい】 - 最終話:第13話 -
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おかえりなさい
                                                      陽ノ下光一

 第13話(最終話)


 まだ寒さがあるとはいえ、春の到来を真近に控えた3月初旬。黒崎美月は大学への入学手続きを済ませていた。
 勤めていた会社へは既に退職届を出しており、3月締めまでは有給休暇を利用して、勤怠表が4月分に切り替わる段階での退職となる。
 そんな3月、春の息吹がそこまで聞こえている日曜日に、黒崎は北村の部屋を訪ねていた。退職と入学手続きを済ませた報告のためにである。
「さすがに6年近くも勤めた会社だから、何も感じないわけじゃなかったけどね」
 紫煙をくゆらせながら、そう語る黒崎の表情には何らの迷いも無い。高卒から働き続け、そして児童指導員になるために退職、大学への入学を決意した女性の誇りにも満ちた姿勢がそこにはある。
「これから4年間……大学を出るときには29歳か。ふふ、私なんかの旦那さんになってくれる人はいるのかな?」
 天井に煙を吹き付けて、表情をほころばせる。北村は当然のように言った。
「オレは待ってる」
 喫煙者ゆえの配慮か、北村に横顔を向けていた黒崎は、ただ黙ってうなづいた。2度も3度もうなづいた。
「うん。私も、待ってる。私が大学を出たら、俊一はもう31歳か。あー、三十路超えだね」
 そう言ってコロコロと笑う。北村はわずかに憮然とした表情になった。
「そういう美月だって、その時には三十路手前だ。お互い様だ。大体、三十路を変に意識してもらいたくない」
 三十路はまだ社会的には若いラインだろうが、20代を若者と表現するときに、30代は若者というには微妙な響きを持つのも確かだ。
「そうね。お互い様。つりあってるかもね」
 そう言って黒崎は楽しんでいた煙草を携帯灰皿に押し付ける。テーブルに置かれた箱から、新しく1本を取り出してまた火をつけた。煙をまた天井へ向けて吹きつけるように吐き出す。
 北村に向けられた黒崎の横顔は右半分。北村からは眼前の黒崎が明瞭に見えているが、黒崎から北村は一切見えていない。彼女の右目の視力は永遠に失われた。
「4年後……その後か、その後、私を受け入れてくれる児童養護施設があれば……私はお母さんになれるんだなあ」
 黒崎の夢は児童指導員になること。家族を失い傷ついた大勢の子供達の「家族」になること、大きな家族の「母親」になること、それが彼女の夢だ。
 かつて彼女自身が、そして彼女の向かいに座る北村自身が手に入れることの出来なかった「本当の家族」、それでも彼らが手に入れることの出来た「大きな家族」、それを夢見て止まない子供達と共にあること、それが黒崎美月という女性の夢であり、彼女はそこへ向かって歩み続けている。
 彼女の右目は永遠に物を映すことは無い。彼女に凄惨な虐待を繰り返した両親、その虐待が彼女の視界を奪ったのだ。しかし、彼女の視界は何よりも鮮明に先のものを捉え続けていた。
「ふふ……みんな、私の事を何て呼ぶんだろ。先生かな? それとも、お母さんって呼んでくれるのかな?」
 黒崎の笑みは太陽のように温かい。おぞましいまでの過去の記憶と向き合って、そうして育った彼女は北村にとってかけがえの無い存在である。
「美月」
 北村は一度呼吸を整えてから、彼女の名前を呼んだ。呼ばれた側は、顔だけこちらに向き直った。手にした煙草からは煙がゆらゆらと立ち昇っている。
「何? 俊一」
 左目の視界でかすかに眼前の青年を捉えた後、彼女はまた横を向いて煙草に口をつけた。壁に向けて煙を吹き付ける。何かを考えたり、間を置く彼女の癖だ。
「オレも、今の仕事。退職届を出してきた」
 その言葉に、わずかな沈黙が降りた。黒崎は口に煙草を加えたまま、壁の方を向いている。数瞬の後、また彼女は煙を壁に吹き付けるようにした。
「美月と再会してから、ずっと色々考えていた」
 北村は言葉を紡ぎ始めた。
「オレはずっと流されるだけだった。何かを考えていたし、目指していたはずなんだ。でも、普通の社会人としての生活を捨てる勇気が無かった」
 黒崎は黙ったまま、一語一語を噛み締めるように出し続ける青年の言葉を聞いている。
「毎年のように「おひさま園」に行っていた。だから……いや……きっと園に自分がいた時からずっと考えていたんだ。ようやく、分かった」
 黒崎の吐き出した煙が、壁にぶつかって霧散した。再度煙草を加えると、先端が赤く染まった後に、また紫煙が上る。
「オレ、「おひさま園」で働かせてもらう事にした。一応短大卒だし、児童指導員は無理でも、保育士資格は取得できる。取得すれば、保育士になれる」
 黒崎は目を閉じている。自分をかつて受け入れ、そして自分の道標となった男の言葉を、ただ無言の内に受け入れている。
「オレは……美月と一緒に家族を作りたい」
 北村の言葉に、より一層の力が入った。
「2つの家族を、美月と一緒に作りたい」
 黒崎は閉じていた目を開けた。再度、壁に向けて煙を吐き出す。
「美月……オレに、お前を支えさせてくれ。お前を一生支えて生きたい」
 北村の、これが正式な黒崎へのメッセージであった。児童養護施設での大きな家族の父親と母親になること。また、2人とその間に生まれてくるだろう子供の、両親になりたいこと。その2つをこめた、明確なプロポーズであった。
 黒崎は、目を閉じた。数秒の後、目を開けると紫煙を壁に吹き付ける。そして、携帯灰皿を取り出して、まだ半ばまでしか吸っていないそれを押し付け消した。
「…………」
 黒崎はその後、テーブルに置いてあった箱を手に取った。その中にはまだ半ダース程の煙草が入っていた。
「うん」
 黒崎は一度うなづくと、箱を握りつぶした。それをゴミ箱へ向けて投げ入れる。北村の瞳が少し大きく開かれた。「おひさま園」入所時から……中学時代の不良少女だった時からずっと、手放せなかった煙草、それを握りつぶしたのだ。
 黒崎は北村に向き直った。清々しいまでの笑顔がそこにある。3月初旬。凍てつくような寒さから、陽光の優しさに人が誘い出される陽気、それそのものを連想させるような笑顔。
「ようやく……踏ん切りがついたよ、俊一」
 彼女は言った。煙草を投げやったゴミ箱を一瞥し、再度北村に向き直って、彼女は言った。
「最後の1箱……この先もね」
 北村は、黒崎が煙草を手放さなかった意味を理解した。そして今、彼女が煙草を手放した事の意味も理解した。
「俊一、私達……素敵な家族を作れるかな?」
 北村は大きくうなづいた。
「当たり前だ」
 黒崎も大きくうなづいた。そして、透き通るほどに白い手が、北村の手を握った。
「家族って……素敵な言葉だね」
「何でそう思う?」
 北村は当然分かっていたが、それでも聞いてみた。
「だって、温かいもの」
 北村にとっても、黒崎にとっても、それで十分通じる言葉だった。
 かつて本物の家族を失い、あるいは捨てられた者同士が、それだからこそ理解できる「家族」という言葉の意味。彼らはこの日、本当の家族へと歩み始めた。















































「ああ、そうだ。そろそろ来るはずだから迎えに出てくれないかい?」
 老紳士然とした穏やかな声が職員室の奥からかけられた。
「分かりました、坂本先生」
 呼びかけられた側は、職員室を後にして玄関へと向かう。玄関の前に立って数分後、車が横付けされ、市の児童福祉員が彼にいくつかの書類を手渡し、説明をした。
 車の中からは、小学生になるかならないかの男の子が降りてきた。腕には無数のあざ。その表情は不信に満ちているようだ。
「裕樹君だね。こんにちは」
 エプロンをつけた三十路過ぎに見える男が声をかけても、挨拶が返されない。男の子は地面を見つめている。
「それでは、後はよろしくお願いします」
 児童福祉員が一礼して、その場を立ち去る。男はその男児の手を優しく握った。握られた側は最初、全身をこわばらせたが、少しためらいをおいて、その手を強く握り返してきた。
「祐樹君、さ、みんなが待ってるよ」
 男にそう言われた男児は、初めて彼の顔を見上げた。
「みんな?」
「そう、みんな」
 男の笑顔に、少し緊張が解けたのか、男の子は手を引かれながら玄関へと向かった。開けられた玄関の先には、緑の長い黒髪が似合う女性が、闊達で明るい笑顔で待っていた。
「祐樹君、こんにちは」
「こ、こ……こん……にちは」
 男児は小さな声だが、初めて挨拶を返した。
 男児が見上げると、女性の白皙の肌が綺麗に映えている。その手の中には静かに寝息を立てている乳児がいた。どことなく、抱き上げている女性の面影を感じさせる。
 彼女の後ろの方では、子供たちが遊びまわっているのだろう。楽しそうな声が聞こえてくる。
 玄関に立つ男児には、不安以外の表情も若干だが見えたように感じた。どんな経験を持っていても、誰もが持ちたいものがある。どんな経験を持っていても、人間は孤独には耐えられない。
「えっと……先生……の……名前……は……」
 消え入りそうな声で男児が問いかけた。太陽のように温かい微笑を返して、女性は応えた。
「私は北村。北村先生とでも、美月先生とでも言いやすい言い方をしてくれるといいな。あ、お母さんって呼んでくれてもいいんだよ」
 男児は手を引いてくれていた男を見遣った。北村……と名乗った女性が抱きかかえる乳児に、これまた少し面影が重なって見える。
「ゴメン。自己紹介が遅れたね。オレも北村なんだ。北村が2人だとややこしいかな。オレは俊一先生とでも、彼女は美月先生とでも……名前で呼んでくれていいよ」
 男児は3人をそれぞれ見遣った。誰もが求めて止まない光景がそこにあるように見えた。
「ここではみんな家族だから、何も遠慮することはないんだよ」
 北村俊一が身をかがめ、男児の視線に合わせて優しく言葉をかける。
「そうそう。この子は私達の家族。向こうで遊んでいる子達もみんな家族なんだからね」
 乳児を抱えたまま、北村美月も座って男児の視線に合わせて微笑みかける。それで目が覚めたのか、乳児が北村俊一の前髪を引っ張り始めた。
「いててて……武司、痛い痛い」
「わんぱくなトコは俊一似だから仕方ないねー。可愛さだけは私に似たのになあ」
「いやいや、こういう風にオレを困らせるのは、間違いなく美月に似ただろ」
「ほら、武司。新しいお兄ちゃんだよ。挨拶しなさい」
 美月が乳児を祐樹の前に差し出すようにすると、武司と呼ばれた乳児は無邪気な笑顔を浮かべた。祐樹が恐る恐る手を伸ばすと、乳児は笑顔だけでなく、声に出して喜びを表現した。
 祐樹の表情に、初めて笑顔に近いものが差してきた。
 北村俊一と美月は互いに顔を見合わせ、うなづき返した。そうして祐樹に対して靴を脱いで上がるように勧めると、互いが互いに同じ言葉を彼にかけた。

『今日からここが君の家だよ。おかえりなさい』


【完】


【おかえりなさい】 - 最終話:第13話 -
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