【おかえりなさい】 - 第4話 -
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おかえりなさい
                                                      陽ノ下光一

 第4話


 その後、孝太から北村に対して「黒崎にお前の番号教えたから」という連絡が入ってきた。逆にそこで止まっているという事は、黒崎の番号が聞けたわけではないのだろう。
 いや、黒崎に親しみを込めて「みっちゃん」と読んでいた奈々子がいるのだから、彼らは黒崎の携帯について教えてもらっているのかもしれない。ただ、それを北村に伝えていないのだとすれば、黒崎が北村に教えることまでは断ったとみることもできる。
 正月休みが終わり、日々の忙しさが戻る。1週間、1ヶ月と時間が経過し、いつしか桜の花が舞い散る季節になっていた。
 北村が営業に回っていると、スーツが馴染んでいない新社会人とすれ違う事が多くなった。
「北村君、早く見積もりを上げてくれ。私もあんまり待っていられないんだよ。仕事はスピードだよ、スピード。1時間かかる仕事も10分でこなす位にやってくれよ」
「はい、ただちに提出します」
 黒ぶち眼鏡の上司も春の陽気にあてられたのか、粘着質に絡みがちの嫌味が減少傾向になっていた。
「これから新人配属もあるだろ? 上が各部署の空気とか気にしてるんだよ」
 と、北村の同僚が彼に耳打ちした。黒ぶち眼鏡も春先の上流からの空気は気にかけるようだった。
「あんまり上からの評判もよくないんだよ」
 と、ざまあみろと言う風で同僚がニヤけていた。部署の成績を上げて上からの評判をよくするつもりがうまくいかない。だから部下を叩きに叩く……という方式が見事に失敗している典型例という事のようだ。
「北村君。ムダ話しているヒマがあったら手を動かしてくれ! その見積もり出したら、ほら……なんだっけ、新規の営業で……ああ、T社の方に行って仕事とって来るんだよ。お金取ってくれない営業はすぐにクビなんだよ、クビ。さっさとしてくれよ」
 日本ではそういった理由で社員の首を切ることはできない仕組みになっているが、残念ながらそう思わない人も多いようだ。春の陽気にも関わらず、殺伐とした競争社会をこの国は選択しつつあるらしい。北村はため息を漏らして、見積書を仕上げ始めた。
 こんな日々の忙しさの中で黒崎から変わらず連絡が無いこともあり、北村もいつしかそのことを忘れ始めていった。


 視界がまるで歪むかのようなアスファルトからの照り返し。コンビニのドリンクコーナーは盛況のようで、道行くサラリーマンがペットボトルに口をつけては、息を吹き返したように歩いていく。
「あっついなあ」
 北村は毎日のように高い空から降り注ぐ熱線攻撃に辟易としていた。意識せずに夏の蒸し暑さを呪う声が出てしまう。
 先ほどまで営業で訪れていたビルを出ると、冷房の効いた天国から地獄への急降下。
 朝から夕方まで暑い中を町から町へビルからビルへと渡り歩いては、営業の日々。夜中に部屋に戻っても蒸し暑さにさいなまれる。夏というのは長期休暇のある子供以外には最もいらない季節なのではと彼は思っていた。
「次の営業は……あー、引継ぎのとこか」
 手帳を見て次の営業先を確認する。それは長期休暇になった先輩から引き継いだ得意先だった。
 ペットボトルのお茶に口をつけて、一息吐き出す。体調不良の長期休暇は今の日本では珍しくもない。数百万の人間がその予備軍にもなっている。明日は我が身かもしれないのだ。北村はもう一口お茶を飲み込むと、さらに大きな息を吐き出して、焼けるようなアスファルトの上を歩き始めた。


「いや、この暑い中ありがとうございます」
 北村が引き継いだ先の取引先で、担当者との挨拶を済ませる。相手の担当者は柔和な顔立ちの中年男性で、初対面の北村に当たり障りのない世間話を振ってきた。
 応接室のドアをノックする音が聞こえ、失礼しますと女性の声。
「北村さんどうぞ。喉が渇いたでしょう」
 出されたのはアイスコーヒー。もちろん全部飲むわけでもないが、一口とるだけでも夏の太陽に悲鳴を上げている身体には染み入るものがある。
 仕事の話については得意先で内容も引継ぎ程度だったこともあり、出された飲み物の氷が小さくなる前に担当者に見送られてその場を辞した。
 北村が外に出ると、西日が照りつけて汗が滲み出す。うんざりした気分になりながら、彼は駅の方へ足を向けた。手帳に書かれたその日の営業回りはここまで。後は会社に戻って事務作業をして、などと彼が考えていると、後ろから自分の名前を呼ぶ声がした気がする。少し立ち止まって、気のせいかと思うと、やはり後ろから誰か追いかけてくる。振り返ると、先ほど訪れていた営業先の方から若いOLが走ってくる。
「北村さん、忘れ物です」
 OLが手にしていたのは、ハンカチのようだった。北村がポケットに手を入れてみると確かに無い。
「すいません、暑い中。ありがとうございます」
 お礼を言って女性からハンカチを受け取る。女性は北村を見て、何か考えているようだった。
「どうしました?」
 北村がそう尋ねると、ゆるくウェーブのかかった長い黒髪の女性は逆に尋ね返してきた。
「実は先ほど、私がコーヒーを運んだんですが」
 言われれば、担当者と話している時にコーヒーを運んできた女性だった。
「北村……俊一さん……ですか?」
 自信無さ気に聞いてくる。苗字はともかくとして……フルネームをどうしてと、北村は思った。机の上に置いてあった名刺でも見たのでなければ、お茶を運んだだけの相手の名前を知ることがあるだろうか。
「はい、そうですが」
「もしかして……『おひさま園』の?」
「えっ?」
 北村は驚いた。名刺の情報で分かるものではない。彼の出自を分かるという事はつまり、同窓の人間ということしか考えられない。
「あ、間違っていたらすいません。突然変な事を聞いてしまって」
 慌てて頭を下げた女性は、すいませんでしたとその場を去ろうとした。
「あ、いや。間違ってないです」
 北村が慌てて返すと、女性がパッと顔を輝かせたように彼には見えた。
「やっぱり! 兄さんだ」
 突然街中で自分の事を兄さんだという女性に出会った北村。面食らったように驚く。それに彼の事を兄さんと呼ぶ人間はそういない。
「分からない? 私よ私」
 女性は興奮気味に自分の顔を指差した。北村がえっとと言いよどんでいると、
「あ、確かに前とは印象が変わってるから」
 女性が長い黒髪を後ろ手にまとめて持つと、髪の印象が少し短めに見えてくる。北村は驚いた様子で、
「あ、まさかお前、黒崎! 黒崎美月」
 女性……黒崎がピースサインを作る。自由になった黒髪がふわっと流れる。
「見てすぐ分からないとは酷いなあ。そう、正解正解」


「髪も長くなってたし、学生時代の印象しか無かったから……すぐに気が付かなかったんだよ」
 その後、すぐ近くのカフェに入った2人。席についた黒崎はうって変わってむくれた様子だった。
「私はもっと早くに気が付いたのになあ」
「いや、だから悪かったって」
 コーヒー一杯位の時間ならという事になったのだが、黒崎は不機嫌なまま。北村はどうしたものかと思いながら、運ばれてきたカフェラテを一口。
「ん、まあしょうがない。おごりねおごり」
 は? と北村が口にしたときには不機嫌さはどこへやら、上機嫌になっている。
「たく……お前そんなにコロコロ表情が変わるやつだったか?」
 北村が呆れ半分でそう言うと、
「そうだよ。知らなかった?」
 正直言えば彼にとっては知らないとも言えた。園にいた頃の黒崎が笑ったりするのをあんまり見た記憶は無い。
「そんな様子じゃ兄さん、彼女もいないんじゃない?」
 黒崎が意地悪っぽく笑みを浮かべている。北村としては悲しい事に反論の余地が無い。
「そういうお前こそどうなんだよ」
 と切り返すのが精一杯だった。黒崎は「ん〜」と外に目を移すと、
「いないけど、私はその気にならないだけだもん」
 ただの強がりというわけでも無さそうで、北村から見た黒崎ははっきり言えば美人の部類になっていた。スタイルも思わず目に入れてしまう胸といい、少しきつい目つきだが整った顔立ち。
「ん?」
 黒崎と目が合ってしまう。思わず目をドリンクに移してしまう北村。
「兄さん、見とれてたの? あらら」
 まるで弄る対象を見つけたかのような表情。北村にとって否定しきれないところも悲しいといえばそういう男の性。
「と、そういや思い出した」
「何を?」
 今回互いに仕事中で時間もそれほどあるわけではない。そんな中で一つ有意義な問いを北村は出すことが出来た。
「オレの携帯。孝太から聞いたんだろ?」
「あ、あー」
 黒崎は少しバツが悪そうに視線を逸らす。半年以上の間、何もないまま放置されていた件だ。
「違うんだよ。誤解しないでね」
 黒崎はちょっと慌てたそぶりで、手を左右に振ってみせた。
「連絡を取りたくないってわけじゃなくて、今は……まだダメかなあって」
 黒崎の言っている意味を捉えかねた北村は、少し眉間に力が入ったかもしれない。
「うん、色々考えているとこがあってね。そうこうしている内にゴメン。うん、ゴメン。えっと……かなり遅くなったけど、私の連絡先教えるよ」
 と、黒崎が携帯の先端を向けてくる。北村が携帯の先を向けると黒崎の携帯番号とメールアドレスが送信されてきた。
「色々考えてるって?」
 北村がそう聞くと、黒崎は少し照れているような困っているような複雑な表情を浮かべた。
「いや、まあ今話してくれなくてもいいけど」
 6年半ぶりに再会して、互いの連絡先も交換できた以上、黒崎が言いよどんでいる件に現時点でこだわる必要は北村には無かった。言える状況になれば、言ってくれるだろうという信頼感は彼にはあった。
「そだね。うん、きっとぼちぼち話せると思うよ」
 黒崎は笑顔を浮かべると、コーヒーご馳走様ねと席を立ち上がる。北村も時計を見ると店に入って10分ほど。仕事中の身では今日はここまでだろう。
「兄さん」
 北村が2人分の会計を済ませてカフェの外に出ると、先に外にいた黒崎は手を振りながら、
「連絡するよ。今度はゆっくり話そう」
 そう告げて黒崎が雑踏の中に消えるのを見届けると、北村も駅へ向かう人ごみの中に歩みを進めた。

【第5話へ続く】


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