【Invisible/visible】 - 全章まとめ読み -
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Invisible\Visible
                                                    陽ノ下光一


(秋の空は憂鬱)
 華島美沙は頬杖付いて教室の外を見た。担任の緒方賢が「昨今の受験戦争はますます激化し」と熱っぽく語る。教室内の生徒は緒方を刺激しないようにと話に聞き入っていた。
(今日も曇りか)
 美沙は別空間にいるかのように、窓の外を見遣ったまま。
「美沙、マズイよ。緒方が見てる」
 後ろの席から声が掛かるが、それでも気に留めた様子はない。
 緒方が窓際の美沙を睨みつける。教室内にそれまでとは違った緊張感が走った。
(雨が降りそうね)
「華島!」
 緒方は教卓を叩いて立ち上がった。静まり返っていた教室にその音は一際大きく響き渡る。立ち上がった時に椅子がキュルルと悲鳴を上げた。
 教室に一瞬ざわめきが起こったが、緒方の一瞥で生徒たちは俯くか、参考書に目を落とした。
 美沙は何事もなかったかのように、外に遣っていた視線を、黒板の前でいきり立っている緒方に向けた。
 その態度は緒方の癪に障るだけの結果となった。
「お前は何を余所見している? 今年は受験なんだぞ。私がお前達のために話をしているというのに、その態度はなんだ? 第一」
「余所見していたことはお詫びします。では、話を続けて下さい」
 美沙は緒方の言葉を遮り、席を立って頭を下げ、再び席に着くと、姿勢を正して緒方を見た。
「今日のホームルームは以上だ! 受験生を抱えた教師は忙しいんだ。さっさと帰って勉強しろ」
 緒方はがなりたてて教室を出た。勢いよく閉められたドアが悲鳴を上げる。
 教室内の各所に安堵の溜め息が漏れた。と同時に、美沙に二種類の目が向けられた。
「関係ないのに巻き込むな」という視線が注がれる中で、
「美沙すごい。あの緒方をいなしちゃった」
 美沙の後ろに座っていた女生徒が感嘆の眼差しを送っていた。
 美沙が後ろを向くとその生徒は親指を立てウインクして見せた。美沙もそれに応えてか、Vサインを送った。
「一緒に帰ろう」
「そうね。梨佳、傘持ってる?」
 梨佳は自慢げに胸を反らした。短く整えた髪が微かに揺れる。
「持ってないんだ」
「ひどーい。まだ私何も言ってない」
「持ってるの?」
 梨佳は首を横に振った。
「じゃ、降り出す前に帰ろう」
「賛成。って美沙も持ってないの?」
 前を歩き出していた美沙が振り返る。腰の辺りまで伸ばされた黒髪が、その動作に舞った。
「秋雨の時期よ。折り畳みは持ってるべきよね」
「じゃあ、降ったら入れてもらう」
「折り畳みじゃ小さくて入りきらないわよ」
「美沙、背高いもんね。まだ伸びてる?」
 頷くと、梨佳は頭に手を乗せて上目遣いに、
「私、百五十にもなってないよ」
「いいじゃない。その方が可愛いもの」
 梨佳のチャームポイントの大きな目が見上げてくる。
「美沙みたいに背が高い方が美人でいいじゃない」
「そう言うけど、私は梨佳みたいにラブレター貰ったりしたことはないわよ」
 並んで歩く二人とすれ違った男子生徒も多いが、その多くは無関心というよりも、美沙を避けるようにして過ぎていく。
「冷血女」
 男子グループから、すれ違いざまに掛けられた言葉。梨佳はその背を睨みつけ、
「ちょっと、アンタ達」
 美沙は、抗議の声を上げようとした梨佳の肩に、そっと手を掛けた。
「梨佳」
「何、美沙」
「ほっときましょう」
「でも」
 梨佳が何かを言うよりも早く、美沙は歩き出していた。男子グループもすでにその背は遠くなっており、梨佳は美沙を追いかけた。
「いいの?」
 靴を履き替えながら梨佳が言った。
「何が?」
「さっきの」
「慣れてるわよ」
 美沙は靴を履き終えると外の様子をうかがった。
「一雨来るわね」
 帰路を急ごうとした二人だが、雨の勢いが急に増し始めた。
 傘を持っていなかった生徒が、鞄を傘代わりに慌てて走り出す。
「美沙」
「図書館に避難しましょう」
 美沙が走り出した先の建物は、半年前に閉鎖されている。周囲にはトラロープが張り巡らされていた。
「立ち入り禁止だよ」
 梨佳が止めるのも聞かず、ロープをくぐり、旧図書館の入口に入った。扉は錠が掛かっている。
「美沙ってば」
 梨佳は言いながらも、付いてきて雨宿りをしている。美沙はハンカチで顔をぬぐった。
「図書館は、やっぱりここよ」
「まあ、木造ってのは珍しいけど」
 梨佳の呟きに首を振った。濡れた髪から雫が飛ぶ。
「あそこは居心地が悪い」
「コンクリの壁って雨の時期最悪だもんね。いくら空調があってもねえ」
「人を拒んでる気がする」
「木造は心を和ませるってか」
 梨佳の冗談にも、美沙の表情は真剣そのものであった。二人は木造のそれを見上げた。鉄筋コンクリートの建物に囲まれ古めかしく映るが、取り壊す必要はなさそうだ。
「ここは?」
「温かい気持ちのこもった所」
「漠然としてるわね」
「それでいいのよ。言葉で言うことじゃない」
 美沙は微笑んだ。
「絶対人気上がると思うよ、その顔」
「表面しか見ない人は嫌い」
 それが、先程の男子や図書館の取り壊しを決めた者達に向けられていることは明白であった。
「私は?」
「梨佳は好きよ。私のこと分かってくれるの、梨佳と弟ぐらいだもの」
「あ、最近会ってないなあ。恭介君元気?」
 美沙は頷いた。
「今何年だっけ?」
「四年生」
 両親の海外赴任のため、美沙は弟の面倒を見ている。
 雨が煙る。その音が周囲を支配した。
 美沙は、図書館の扉に掛けられた南京錠を引っ張った。ジャラ、という音が響く。
「美沙?」
「封印か」
 美沙は錠を握り締め、放した。


 気まずい沈黙はどのくらい続いていたのか。
 梨佳は何か話題はないものかと、思い悩んだ。
 最近流行の物、歌、美沙はその手の話が好きではない。
「ねえ、美沙」
 掛けられた声に、静かに振り向く美沙。
「この周りって、なんか雰囲気違うよね」
「木々が周囲を覆っているのは、この辺りが森林だった名残なの」
「へえ、美沙、よく知ってるね」
「調べただけ。でも、今は寂しそう」
 紅葉を始めた木々が雨を静かにしたたり落とす。それは、激しく叩きつける雨音が外界を支配する中で、旧図書館の周囲に別の空間を作り出していた。
 その情景は外の世界が次々とコンクリートに支配される中、木々と旧図書館が泣いているようでもある。
 そんなことをふと思いながら、梨佳は傍らの友人をのぞき込んだ。
 美沙は大きく目を見開いて、南京錠の掛かった扉を凝視していた。美沙が驚いている。梨佳でも、そのような光景は、数えるほどしか見たことがない。
「どうし……」
「扉」
「え?」
「今、聞こえなかった?」
「何が?」
 美沙が首を傾げ、しばらく押し黙る。神経質そうにこめかみの辺りを指でつついたかと思うと、手で額を押さえて息をもらす。
「扉の開く音」
 再び口を開いた美沙の口調は小さく、弱々しい。
「閉まってる、よね」
 梨佳は扉を押した。開くわけがない。錠が下りているのだから。
 それでも美沙は納得がいかないのか考え込んでいる。梨佳は美沙が以前言ったことを思い出した。「人間が科学で克服したのは一握り。耳を澄まして、見た目に惑わされないで。そうすればこの目隠しされた世界が見えるようになるから」
 美沙の感覚の鋭さは、梨佳の認めるところであった。
「図書館が抗議してるのかしら」
「そうかもしれない」
 梨佳の冗談に、美沙は神妙に頷いた。


 雨が上がり、二人がその場を立ち去る。雲の切れ間から月が顔を覗かせる。
 ギイ、ギイ、軋むような音を立てる建物の屋根に、一羽の鳥が止まっていた。


 翌日も美沙は旧図書館で雨宿りをしていた。
 友人の梨佳はいない。予備校だ。
 加えて土曜の放課後は、図書委員会のミーティングに、美沙は参加している。
 ただの集まり。時間の無駄。プリントにして配る程の内容もない。                
 だったらそのようなミーティングなど廃止すればいいのだが、校則はそれを義務付けていた。
 そして形式通りの顔合わせが終わると、美沙は帰路に着いた。
 降りはじめた雨。取り出した傘は開かなかった。空を見上げ、一瞬迷って走り出す。
 しかし、学校を出ないうちに強くなってきた雨に、たまらず避難場所を求め視線をめぐらせた。
 その中に、あの図書館が入ってきた。
 駆け込むと、携帯で弟の恭介に傘を持ってきてくれるように頼む。交換条件として晩ゴハンのおかずにクリームコロッケを要求された。
 空を見上げる。憂鬱になる、暗く重苦しい雨雲。
 ため息をついて壁に寄りかかり、ふと扉に目を移した。
 
 錠前がない。

 美沙は扉にそっと手を伸ばした。恐る恐る、触れる。
 間を置いて、手に力を込めた。
 ギイ、
 扉の軋む音。
 ゴクリと唾を飲み込む音が、思いの外大きく聞こえた。
 そのまま扉を押した。
 中から差し込んできた光が美沙の視力を一瞬奪った。

 優しい日差しが窓際の閲覧席に差し込み、奥には本棚がズラリと列を成している。
 美沙もよく知っている「図書館」の中であった。

 突然の出来事に、美沙は唖然としてしまった。
(どこなの、ここ?)
 自問する。が、答えは一つだ。
 見渡す限り、人の気配はない。しかし、
(この温かみのある空間は……あそこしかない)
 不安はなかった。人を拒絶する気配は感じられない。
 館内を歩き出す。最初に受付の席に置いてある本の山が目に入った。その上に、『書籍整理中。本を借りる方は鈴を鳴らして下さい』という、懐かしいカードがある。思わず笑みがこぼれた。
 美沙は、木造建築と図書館内の独特の匂いを感じながら、館内を巡り始めた。
 書庫は、ある程度進むと、二階へ続く階段がある。二階の奥の方は、陽があまり届かず、薄暗くなっている。
 古い書籍はこの二階に収納されている。
 薄暗い空間に何があるのかと、期待を込めながら上ったものだ。
 それは今日も変わらなかった。一歩、また一歩階段を上る。
 ギ、ギ、ギ、
 階段の微かに軋む音。気分を高揚させずにいられない不思議な空間。軋む音は、一歩一歩、二階への期待を抱く自分に緊張を与え続ける。
 美沙は意識せず、手を胸の前に当てていた。久しぶりの感覚に緊張している。
 二階の光量は、本を確認するには足りるが、少し離れた本が見づらい。神秘的な雰囲気さえある。
 奥の本棚は薄暗さへ溶け込むようですらあり、無限に続いている印象を与える。
 美沙は手近にある本を手に取った。
 内容は古代ブリテンの王族と平民の娘の悲恋物語。そのまま一階の閲覧室へ持って行き、読もうと思ったところで、
「忘れてた」
 弟に傘を頼んでいた。読んでいるわけにも行かない。
 本を借りようと思って、受付へ。
 まだ『書籍整理中……』のカードが出ていた。
 鈴を、チリン、チリン、と鳴らす。
「でも、ここって」
 ここは「図書館」だが図書館ではない。
 美沙の心配を余所に、「はいはい、今行きますよ」という、高い男の声が聞こえた。
 間を置いて、受付の後ろにある階段から姿を現した。
「本の貸し出しですか。はいはい」
 書籍整理で付いた翼の汚れをハンカチでぬぐいながら、受付の席に座る。
 美沙は、この「図書館」に入った時以上に、長い間硬直していた。
「では、図書カードのここに名前と学年、クラスと出席番号を」
 非常に大きな茶色い翼で、器用に図書カードの記入欄を指し示す。
 美沙は、まだ動けない。
「ああ、そうだ。学生証の提示を……あの」
 頭と胴体の境が判別しづらいが、首を傾げてみせた。
「聞いていますか?」
 美沙は、まだ呆然としていたが、ただ、こうとだけ呟いた。
「言葉……しゃべってる」
 美沙の目に、その胸にあるプレートが入ってきた。
『綾縞学園図書館司書』
 美沙はめまいにも似た感覚を憶えた。
 司書は怪訝そうな顔つきで美沙を見ていた。
 やがて、合点がいったのか手を叩いた。
「あの」
「はい?」
「人間以外の司書は初めて見ますか?」
「え、ええ……」
 美沙は、頷いた後、言葉に詰まった。
 しかし、なんとか言葉に出してみた。
「フクロウの司書は……初めてです」
 二人は……一人と一羽は、そのまま沈黙し、互いをじっと見つめ合った。
 それを破ったのは、司書だった。
「では、学生証を。借りるんですよね?」
「借りれるんですか?」
 司書は、その大きな翼で、人間みたいに頭を掻いた。
「ここは図書館ですよ」
「ええ」
「分かりますよね?」
 美沙はコクコク頷くと、鞄から学生証を取り出した。
 司書はそれを確認すると、美沙に返し、カードの記入をさせた。
「では、返却は十月十日までにお願いします」
 美沙は、差し出された本を鞄にしまい込むと、まじまじと司書を見た。
「あ、あの? 何か?」
 司書は見続けられることに居づらさを感じてか、やや不快気に言う。
 美沙は、梨佳が言うところの「人気が上がるだろう」笑みを浮かべ、
「似合っていますよ、その服」
 司書は目を大きく見開くと、自分の服に視線を落とし、
「似合ってますか」
 蝶ネクタイを締め直して、胸を張った(美沙にはそう見えた)。
 グレーのスーツの中から、清潔そうなシャツが覗いている。さすがに、
(マスコットキャラみたい)
 とは心の中に留めた。
「じゃあ借りていきます」
 美沙はお辞儀した。司書もした。照れているのか、その動きはぎこちない。
 美沙は扉の前で、もう一度振り返った。司書がこちらを、じっと見ている。温かい日の光はその姿を包み込み、鳥ゆえの無表情さから来る怖さを打ち消していた。
 美沙は、しばらくその司書を見続けたい衝動に駆られたが、弟が迎えに来ることを考え、もう一度司書に対して、あの笑顔を見せた。
 司書は再度頭を下げ、美沙は扉を開けた。

 雨音が激しい。
 後ろを振り返る。
 錠前が掛かっている。
 鞄を開ける。本が入っていた。
 美沙は、扉を凝視した。
「姉ちゃーん」
 声に思考を中断し、振り返った。
 見れば、恭介が走ってくるところだった。
 辿り着いた恭介は、息を切らせながら美沙を見上げた。
「サンキュ。恭介」
 恭介の頭を乱暴に撫で回す。
「痛いよ、姉ちゃん」
 弟の抗議に、美沙は手を離した。
「さて、約束だからな。今日はコロッケ。買い物していくから付いてきなさい」
「クリームコロッケ!」
 恭介は、ぷうっ、と頬を膨らませた。
「分かってるから、付き合え」
「人使い荒いなあ」
「文句言うなら、作ってやんねえぞ」
 母としての優しさと、父としての強さ。美沙は、弟の前では両親の役を務めなければならない。そう思っていた。男のような言葉遣いもそこからきている。
 楽しそうに談笑しながら去っていく二人を、図書館は静かに見ていた。


 パックのオレンジジュースが、ベコ、ベコ、と悲鳴を上げた。梨佳が、突き立てたストローから口を離す。
「ウチの図書館って、あ、新設の方だけど。あそこさ」
 梨佳は学生証入れから、バーコードが印刷されたカードを取り出した。
「機械で読み取ってるよね」
 美沙は、購買で買った焼きそばパンを口にしながら頷いた。屋上のベンチに座るその膝の上には、土曜日に借りた本が乗っている。
 久々の日差しが、その分厚い表紙に、鈍い光を張り付かせた。
 梨佳はその本を手に取ると、何度もひっくり返したり、パラパラとめくる。
『私立綾縞学園図書館』
 その印字が刻まれているが、管理に使われている磁気コードラベルがどこにもない。代わりに、
 

『図書カード控え。
貸し出し日 十月三日(土)
返却期限  十月十日(土)
返却期限は守りましょう』

「これってさ、旧図書館の控えだよね」
「そうだね」
『幻の焼きそばパン』と、購買のメニュー表に書かれているそれを、半ばまで食べ、残りを梨佳に渡した。美沙は少食で全部は食べない。『幻』のそれを買い損ねた生徒達の叫びが聞こえてきそうだ。
 梨佳は「サンキュ」といって、口にする。
「みふゃのいふも」
「口を空にしなさいよ」
 梨佳は、コツン、と自分の頭を小突くと、口をせわしなく動かして、飲み込んでいった。
「表面だけでは世界は見えない。美沙がいつも言ってるそれが、まさに現れたってやつだね」
「あまり驚かないのね」
「この目隠しされた世界が云々言ってた人が、今更何を言うかな。害がないならいいじゃないの」
 美沙は、息と共に笑みをこぼした。
「それよ、それ。その笑みこそまさに隠された世界」
 梨佳が、ツン、と指を美沙の鼻先で弾かせる。
(梨佳がいて、本当によかった)
 嬉しく思った。
「でもなあ」
 梨佳は腕組みして、難しい顔をする。
「なーんで私が予備校の日に、そういうトコに入れたかな」
「じゃあ、梨佳も今日行こうよ。今日は予備校じゃないでしょ?」
 梨佳は、子供のように表情を輝かせた。首を何度も、ブンブンと振る。
 そこに、昼休みの終了を告げるチャイムが響いた。
「放課後が楽しみ、楽しみ♪」
 スキップしながら、心底楽しそうに進む親友の後を、美沙は苦笑しながら付いていった。


 梨佳は扉をノックした。
 美沙は『封印』をジャラジャラといじっていた。
 梨佳は手を顎に当ててうなる。
 美沙はこの前のイメージを浮かべた。
「今日は休館かな」
 最初に口を開いたのは梨佳であった。
「そう……かな」
 美沙の口調は沈んでいた。
「ゴメンね」
 美沙の表情は沈痛を通り越し、今にも泣きそうですらあった。
「何で美沙が謝るの? 休館なんだから仕方ないでしょ」
「でも……」
 美沙が力なくうなだれていると、梨佳は頬を膨らませて、その表情を覗き込んだ。
「ああ、もっとアクティブに考える。アクティブに! 今日は休館。今度の開館日に来る。オーケー? ドゥーユーアンダスタン?」
 美沙はうなだれたまま。
「よし。じゃあ今日は帰る。ほら、帰る。帰りにケーキでも食べてこ」
 梨佳は、美沙の手をつかむと、強引に引っ張って行った。
「本当にゴメン」
「何度も謝らなくてよろしい」
「今度、司書さんに会えたら、写真でも撮ってくる」
 それを聞いて、梨佳は足を止めた。振り返ったその顔は、本当に怒っていた。
「美沙。それ、美沙の信条に反してるよ。そんなことしたら、私は、世界を表面しか見れない人間になっちゃうじゃない! だからダメ。絶対ダメ! そんなことしたら、私も美沙も傷つくよ。……だから、私は自分で見る。この目で見る。だから、そんなこと言っちゃダメだよ」
 切れ長の美沙の目から、涙が落ちてきた。ぬぐうが、止まらない。ヒック、ヒック、としゃくり上げる。
「ゴ、ゴメ……ン。ほ……ん……当に。……あ、りがとう」
「ほら、泣かない。謝らない。もう」
 梨佳はそう言って、目尻をぬぐった。
「私まで泣いちゃうじゃない」
「梨佳……には、この、体験。共……有、して、ほ、しく……て」
 梨佳は、泣くのをこらえて震える体を押さえて、美沙の手を握り締め、言った。
「ありがとう」


「美沙、今日も《図書館》行くんでしょ?」
 二人は傘を差して旧図書館の脇道を歩いていた。昨日の空模様が嘘のように、今日は灰色一色の空から雨が落ちる。
「いいなあ。私も予備校なければねえ」
 梨佳が、傍らの背の高い親友の顔を、見上げる。
 顔には緊張が張り付いている。
 今日こそは、という期待。
 今日も、という不安。
 美沙は梨佳に脇腹を肘で軽く突かれた。
「会えるといいわね。でも私が一緒の時の方がなおいいけどね」
「うん。今度は絶対一緒に行こう」
「あったりまえじゃない。予備校ない日は、毎日付き合わせるからね。じゃ、またね」
 梨佳は手を振って、そのまま正門へ向かう。美沙は、旧図書館へと足を向けた。
 下校時刻が他のクラスよりも早かったのか、辺りに人影は見当たらなかった。
 バス停が、正門側でなく、裏門側の方にあるのも原因であった。もともと、この辺りは交通の便がよくなかった。そのせいで、開発の早かった裏門側の方にバスが通っているのだ。
 美沙は、胸の鼓動が激しくなるのを感じながら、扉の前に来た。それを見て、さらに鼓動が激しくなった。

 扉に当てた手に力を込めた。

 受付には司書がいた。
 司書は来館者を認めると、会釈した。美沙もつられて頭を下げた。
 受付の前に来た美沙は、鞄から本を取り出した。
「ありがとうございました」
 そう言って、司書に渡す。受け取った司書は、手元の貸し出しカード入れから、その本のカードを取り出し、『返却済』の印を押して、『返却図書』と書かれた箱に入れた。
「一人で全部管理してるんですか?」
 司書は大きな目をさらに見開いた。何かの感情を表すときの癖なのかもしれないと、美沙は思った。
「まあ、最近は図書館に来る人も少ないですから、一人で十分ですよ」
「でも、大変でしょう?」
 顔を覗き込まれた司書は、胸の前で翼を組む。
「なら、私が手伝いますか?」
「と、言われても、私の仕事ですしね」
 司書は、無表情だが困っているらしく、視線は天井の方をさまよっている。
 美沙は、じっ、と司書を見据えていた。
「んー、では、虫干しを手伝ってもらえますか?」
 今日はいい日和ですからね、と言いながら椅子から立ち上がる司書。足が短いためか、その視線が少し下に落ちる。それでも、百七十センチを越す美沙の身の丈よりも、高かった。
 美沙は見上げてポツリと一言。
「むっくりしてますね」
 言ってから、慌てて手を振り言い直す。
「あの、温かみがあるというかなんというか」
「そうですか?」
 美沙は首を縦に振る。司書は気にしてないようだ。
 司書は背を向け、受付後ろの階段前で立ち止まる。
 頭だけを美沙に向けて、翼で指し示しながら、
「この階段を上がっていくと屋上に出られます。本は箱ごと上げてありますので」
 そして跳ねるようにして階段を上っていった。


 屋上は、温かな日差しだけでなく、心地良い風も流れていた。
「すごい……」
 美沙の口から、自然とその言葉は漏れた。
 二階建ての図書館の屋上。そこから見えるのは、学園のキャンパスでも、開発された住宅地でもなかった。
 木、木、木、また木。どこもかしこも緑と紅葉のコントラスト。
 見渡す限りの森の中にここは存在しているのだ。
「森の香りだ」
 美沙は目をつぶって、大きく息を吸い込んだ。森林の空気で胸を満たすと、そのまま横になりたい気分になった。
「気持ちいいでしょう。だからいつも作業がはかどらないんですがね」
 司書も翼を広げ、空気を吸い込んだ。
「あ、いけない。手伝いに来たのに」
 慌ててそう言う美沙の前で、司書は翼をバタバタさせた。
「あ、いや。そういう意味ではないです。休んでいてもいいんですよ」
「え、でも」
「ここのよさが分かっていただけるだけで、私は嬉しいのです」
 司書は言いながら、本を取り出し、パラパラとめくって、風を通す。
 美沙も箱の中の本を取り出して、それに続いた。
 しばらくの間、
 パラパラ、という本をめくる音。
 さわさわ、という森がそよぐ音。
 それが空間を支配した。
 どれほどの間、そうしていたのだろう。
 美沙は手をかざし、空を見上げた。
 日は依然として高い。
 ここは悠久の中、温かい日差しと森の香りに包まれているのだろうか、世界が調和しているとはこんな感じかもしれない。全ての存在が満たされている、そんな空間。
(いや、違う)
 ここは昔の綾縞? だとしたら、この光景は。
 そう美沙が考えた時、心を読んだかのように司書が応えた。
「我々は痛みを感じます。人と同じです」
 それに応えるように、風が吹き抜け、森がざわめき、本が一気にめくれていった。
「森も本達も、みんな心を持ってます。痛いと思います」
 司書は、虫干しした中から、一冊の分厚い本を取り上げた。それを美沙の前に差し出す。
「あなたは、その言葉が聞こえていたのだと思います。全てを見ようとするからこそ、私達が見えたのでしょう」
 呆然としている美沙の手に、司書は本を持たせた。
「これは、この大地が見る夢。でも、夢は世界に存在するものが見るものです。私たちは」
 司書が言葉を区切る。美沙は、言い知れぬ不安に駆られ始めた。
 この世界から出される不安。
 この世界が消える不安。
 自分の安定が泡沫の夢になる不安。
 夢見る存在が消えてしまう不安。
「ま、待ってよ。お願いだから」
「私たちはすでに、そしてこれから」
「止めて! 聞きたくない!」
 美沙は耳を塞いで、絶叫した。
 しかし、その言葉は直接頭の中に響いてきた。
「消える存在なのです」
 空は曇り始め、木々は消え、コンクリートの灰色が広がり始める。
「お願いだから、私からこの場所まで取り上げないで。表面ばかりの、偽物の世界はイヤ!」
 司書は、美沙の肩を叩いて、ハンカチを差し出した。
「泣かないで下さい。これを貸しますから」
 美沙は、はっとして司書を見上げた。すでにその姿は薄らいできている。
 美沙は、司書が消えるその間際に声を絞り出した。
「返しに来ますからね」
 
 直後、美沙は旧図書館の前にへたり込んでいた。
 その傍らには、厚手の書籍。手にはハンカチが握られていた。
 旧図書館の扉は封印されていた。激しくなった雨が強い風とともに吹きつける。
 美沙は、その場で泣き続けた。


 家の呼び鈴が聞こえる。恭介が「はーい」と返事して、玄関へ向かう足音が聞こえた。
 身体がだるく、いうことを利かない。そして、動かす気も起きなかった。
 その内、階下で「あ、梨佳姉ちゃん。お見舞い? 上がってよ。姉ちゃん部屋にいるからさ。喜ぶと思うよ」「相変わらず姉さん思いね、恭介君」「ちょっと、梨佳姉ちゃん」
(梨佳、また恭介からかってる)
 美沙はそう思うと、暗く沈んでいるはずなのに、笑いそうになった自分を感じた。
 コンコン、ノックの音。「おじゃましまーす」というと同時に部屋に入る梨佳。
 美沙が半身を起こそうとすると、それを押さえて、額に手を当て、自分の額と比べる。
「ひどい熱」
「三十九度二分……だって」
「昨日の雨に打たれてたんでしょ。突然、台風みたいになったからね。あれに打たれりゃ、そりゃあダウンするよ、美沙」
 梨佳は、黙りこくった美沙の態度にいつもと違うものを感じてか、眉をひそめた。
「昨日、あれから何があったの?」
 美沙は、梨佳の視線が枕元の書籍に向くのに気づき、手を伸ばそうとしたが、梨佳の手がそれを取り上げた。
 パラパラ、とめくった梨佳は、合点がいった、といった表情でそれを戻した。
「入れたんだね」
 美沙は布団で顔を半ば隠すようにしながら、小さく頷いた。
「説明してくれる?」
 美沙はしばらく目を合わせず、黙っていたが、それは身体のだるさのためだけではなかった。
 やがて、重い口を開き、昨日の出来事を要点だけかいつまんで話した。
「返すんでしょ?」
 美沙は本に手を伸ばし、抱きこんだ。
「なら、何十年かかっても、見つけなさいよ。それは、彼らの夢かもしれないけど……美沙、あなたの夢でもあるよね」
 梨佳は気休めを言う人ではない。それは美沙も十分に分かっていた。
 そのような親友だからこそ、存在がありがたく、支えになっていることを美沙は思い、涙を流した。


 電話は突然であった。
 翌日になっても、美沙の熱は下がらず、雨の音を聞きながら安静にしていた。
 部屋の子機に、弟の恭介がコール。
 梨佳よりの電話だった。
『寝てた? ゴメン! でも、すぐに、知らせないとって、思って』
 梨佳の声は切れ切れであった。走っていたのか。慌てているのは間違いなかった。
「落ち着いて」
『落ち着けないわよ!』
 梨佳はがなり立てた。受話器から息遣いが遠ざかる。息を整えているのだろう。
『今日に限って、財布も携帯も家に忘れていて、それで知らせるのが遅くなっちゃって』
 梨佳は焦るあまりに、その言葉は要領を得ない。
『ゴメンね。美沙、熱出してるのに……じゃなくて、ああ、もう! だから言いたいのは』
 梨佳が一旦言葉を切る。唾を飲み込む音。
『緒方のヤツが言ったのよ! あの旧図書館が、今日の夕方から取り壊されるって。ええと、今五時だから、もう始まっちゃってる!』
 美沙は、その容態からは考えられないほどの早さで、飛び起きた。子機が音を立てて落ちる。
『美沙、聞いてる、ちょっと』
 梨佳の声は、虚しく床に響いていた。


 美沙は、呼び止める恭介の声も聞こえず、家を飛び出した。そして、ただひたすら走った。
 女っ気の全くない、上下ともブルーのパジャマの上から、手近にあったブレザーコートを羽織り、降りしきる雨の中を、とにかくひた走った。
 途中で蹴つまづいて転ぶ、立ち上がろうとするが息は荒い。意識が遠ざかりそうにもなる。
 それでも、気力を振り絞って、立ち上がり、また走った。
 
 
 足取りはおぼつかない。
 転ぶたびに、そのまま目を閉じたい衝動に駆られる。
 水を吸ったコートはあまりに重い。
 息つくたびに咳きこみ、嘔吐感がこみ上げてくる。
 学園まで一時間はかかった。
 旧図書館へ足をひきずるように進む。そこを囲む木々は、メキメキ、バキバキ、と悲鳴を上げている。
 周りには、無数のヘルメットを被った作業着姿。重機も入り込んでいる。彼らの中になんだ、なんだ、とざわめきが巻き起こる。美沙を制止しようと、作業員が近づいてきた。
 重機のうち一台は、すでに、整地された道から、旧図書館へとその矛先を向けようとしていた。
 ゴゴゴ、という重機の動き出す音は、美沙には悪魔の雄叫びとしか聞こえなかった。
「待って! 壊さないで!」
 美沙は、制止を振り切り重機と旧図書館の間に立ち、両手を広げた。
 重機を動かしていた作業員は、信じられないものを見るような目つきで、口を開けている。
 どう見ても、病院を抜け出してきたとしか思えない格好の女の子が、両手を広げて重機の前に立ちはだかっている。
 その光景は、異様であった。作業員達は、その鬼気迫る雰囲気に呑まれていた。
 が、すぐに目の前の出来事を、現実として認識した。
「どきなさい! 危ないぞ」
 重機に乗った作業員が叫ぶと、周りの作業員が美沙に駆け寄って、その場から離れさせようとする。
 美沙は、作業員達が驚くほどの力で、その手を振り払った。
「お願い、壊さないで! この建物のどこに壊す必要があるの? この建物の何が悪いの? 何で? 何で壊しちゃうのよ!」
 美沙の声は、思いの外よく響き、作業員達は驚かされた。
「早くつまみ出せ」
 重機の後方のテントから、責任者と思われる男が、拡声器で作業員達を怒鳴りつけた。
「やめて、離してよ」
 美沙は再び作業員達を振り払おうとするが、視界が回った。
 そして、そのまま意識を失った。


 美沙が目を覚ましたのは、病院のベッドの上であった。
 半身を起こそうとすると、恭介が静かに寝息を立てていた。
「あ、気がついた」
 恭介の脇には、梨佳が椅子に腰掛けていた。読んでいた文庫を閉じ、立ち上がって頭を下げる。
「私のせいだね。ゴメン。……肺炎の一歩手前だったって」
 美沙は、その言葉がひどく遠いものに感じた。心にポッカリと穴が開いた感じがした。
「あの図書館なんだけどさ」
 顔を上げた梨佳は、複雑な表情をしていた。
「多分、美沙のおかげだね。って、けしかける形になった私が言うのも、その、なんだけど」
 梨佳は口ごもった後、美沙の手を握って言った。
「新しく作られる市の公園。あそこに小さな図書館を併設するって話があったらしいの」
 美沙は、目を瞬かせながら、梨佳と視線を合わせた。何を言われたのか分からない。
 しかし梨佳の表情は、心底嬉しそうであった。
「で、昨日の現場に学園の理事長……えーと」
「高島?」
「そう、その理事長がいたらしくって、美沙の行動に感激したとかで、あの図書館を移築することにしたらしいのよ」
 美沙は、まだ普段の調子を取り戻せていない思考の中で、梨佳の言葉を反芻した。
(何? 移築……それって)
「ほら、理事長って元々政治家じゃん。結構、市にも影響力あるらしいしさあ。でもさ、これで行けるんだよ、あそこに。返しに行けるんだよ。それに私も」
 興奮して語る梨佳。しかし、それはもはや聞こえていない。
(大丈夫。あそこはまだある。確かにあるんだ)
 美沙は、涙が落ちるとともに、笑みもこぼしている自分に気づいた。
 梨佳の口調はさらに熱を帯びだし、病室であることも構わず、「やった、やったよ美沙!」と、大声で喜んでいた。
 
 直後に、看護婦に叱られたのは言うまでもない。


「さーて、今日は私も一緒だからね」
 美沙は「図書館」へと向かっていた。隣にはスキップしながら付いてくる梨佳がいる。
 美沙は、鞄の中に一冊の本を持っていた。
 厚手の書籍である。
 そして、ハンカチも。
 高校のグランドぐらいの広さはある、そこそこに大きい公園の脇に、木造の図書館が併設されている。
 日曜日の朝。まだ通る人影はまばらである。
 二人は、図書館の前に立った。人の気配はない。外にある看板は初めから気にも留めない。

『開館は十一月十四日(土)より
綾縞市教育・文化部広報』
 
 二人は、互いに顔を見合わせ、コクリ、と一つ頷いた。
 図書館に行くのではない。「図書館」に本とハンカチを返しにいくのだ。それが、司書との約束でもあるからだ。
 二人の手が扉に触れる。
 手に力を加えた。
 そして……そこには。


【Invisible/visible】 - 全章まとめ読み -
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