12/12(金)

国立大学独立行政法人化に対する私のコメント


 さて、2003年12月12日の現時点で、すでに国立大学の独立行政法人化は決定事項である。

 このことは、小泉内閣が決定したことであり、また、「民間にできることは民間に」という現政権の方針でもある。

 しかし、現在、全国立大学の年間予算総計は約3000億円程度であり、非常に少ない(米軍への「思いやり予算」よりも低額である。米軍への年間供与額は3000〜4000億円程度と言われる)。

 それは、例えばヨーロッパの大学が授業料無しの現状を見てもわかる。ドイツで4年間大学へ在籍しようと、8年間在籍しようと、その間にかかる授業料はないのである。

 現時点での日本の国立大学の年間授業料は約52万円であり、これは私が大学へ入学した4年前から2万円も上がっているのである。

 つまり、日本の大学はそれだけ多額の授業料を徴収しないと運営できないわけであり、それだけ予算配分が少ないというわけである。

 独立行政法人化は「民間でできることは」や「政府が運営しなくても」という説明からもわかるように、教育費削減の方向性を強く持っているのである(その代わりに軍事予算=防衛費は毎年増額されているのである)。

 現時点でも大学は授業料を徐々に増やしているが、独立行政法人化で大学が経営の論理に走れば、当然授業料は上がっていかざるを得ないのである。

 私立大学を例にとればわかりやすいが、将来的に国立大学の授業料は私立大学のそれに近くなることは十分に考えられる。

 そうすれば、大学へ行くことが困難になる学生が増えることは間違いないであろう。かくいう私も、経済状況から私立大学へ行くことを諦めた人間である。

 大学へ進学できないとすれば、学べる範囲は高校レベルまでが限界となる。

 個々人で高卒レベルでも様々な知的好奇心、世論への批判などから勉強する方はいるが、大多数は「新聞・テレビ・インターネット」などの情報媒体を通じての受容となり、自ら考える機会を喪失しかねない。

 大学教育のメリットは、少人数制のゼミナールで、様々な人と議論をし、そのことによって、世の中の出来事などを批判的に検討できることである。

 さらには、自分の考え方、メディアで言われる考え方を相対化し、何が相対的に「良い」方向性の議論かを考えられる点である。

 そうでなく、テレビなどの媒体だけに頼れば、その考える範囲は狭まり、下手をすれば「大本営発表」を鵜呑みにする「大衆」となりかねない。

 議論のできる人間が「お金のある人間」だけに限られてくるとすれば、これは非常に問題である。

 政府がもし、憲法論争などで国民の権利を侵害しようとするとき(例えば有事関連三法案)、それを批判できるのが知識人だけの場合、これは大衆的な反対に結びつかずに、政府の横暴を許す可能性は否めない。

 また、日本国憲法では「教育機会均等法」があり、お金があろうとなかろうと、意思があれば教育を受ける機会は等しく保障されているのである。

 独立行政法人化の方向性は、これを侵害する可能性を含むのである。

 「構造改革」というが「誰のための改革なのか」を十分に我々は考える必要がある。弱者は救済されないのである(銀行は潰す。弱いものは潰れるんだと首相は言うが、大銀行だけは税金で救済するのである)。

 また政府が「大学も競争力を持つべきである」ということは、しごくまともに聞こえるが、しかしよく考えてみるとおかしいのである。

 要するに、これからは大学が企業へ売り込みをするべきであるとのことだが。

 例えば、理工系の大学研究機関は、毎年研究成果を企業へ売り込めるメリットがあるかもしれない。

 しかし、文系などはそのメリットに該当できない。

 歴史学系列の学問研究は、その時代時代の分析を積み重ねることで、人間文化のあり方を問うことのできる学問分野であり、それは「この世界情勢はどう捉えられるか?」「人は今の状況をどう考え、行動すべきか?」といった指針を導き出してくれるものである。

 しかし、こういった研究は非常に長い歴史研究の中から生み出されてくるものであり、毎年毎年「成果」が出るというものではない。また、企業が好むような「魅力」を感じるといえば疑問がある。

 また、「研究論文」がどれだけ多く他の書籍で引用されているかの回数で、研究者の内定をするというのは非常に疑問が残る。

 つまり、理工系だろうが文系だろうが、分野によっては研究数が少なく、それだけ引用数では不利な分野は多いのである。

 この方向性は、ある方向の研究分野を意図的に研究対象から削除してしまう危険性を伴う。

 また、現在大学において研究者とされる「教授・助教授」であるが、彼らはいまや大学の経営に関して過剰なほどに参加している。会議数の多さを見ればわかる。

 つまり、これからの研究者は「マーケティング論」も勉強し、大学経営に参加しなくてはならない。

 この感覚は無論重要なのだが、それだけに研究者の研究時間を削り、研究分野の進展に影響を及ぼす可能性がある。

 研究分野とは多くの場合、十分な予算と時間が与えられて初めて開花の可能性を持ちえるからである。


 さて、国立大学合併という動きは、現在の状況の中で現実味を帯びてきている。

 独立行政法人化後、大学が生き残るためには、大学自体がより大きくなり、経営基盤を大きくさせざるを得ないからである。

 私は、この論には「総論では賛成、具体論では反対」なのである。

 総論では賛成しているのは、大学自体の規模が大きくなることにはメリットが多いからである。

 例えば、私が在住している茨城県の国立大学を一つの大学に合併すれば、各大学の研究分野、施設が集中できるわけであり、学生としても図書の利用に関する利便性や、研究テーマの広がりから納得のいく勉強をできる環境整備が進むだろう。

 7000人規模の大学が4つも5つもあるよりも、大規模化して4万人単位の学生と研究者を集める大学のほうがメリットは大きいかもしれない。

 しかし、具体論では反対なのである。

 なぜなら、そこには必ず「経営の合理化」と称した「リストラ」が伴う危険性を持つからである。

 もし、研究者が大学の合併で大量解雇されれば、それだけ研究分野の進展を妨げるだろう。また、学生がゼミナールで勉強する際「100人教室」のようなマスプロ授業をせざるを得なくなるだろう。

 そのような授業は「4〜5人制」のゼミナールと比べて、遥かに質の落ちるものである。

 なぜなら、研究者と学生が議論し、学生が決め細やかなケアを受けられる授業の機会を失うからである。

 マスプロ授業などというものは、「経営の論理」かもしれないが、「学術の論理」ではない。

 私は、私立大学ではゼミナールに出ないで卒業する学生がいると聞く際に私立大学(早大などでは、ゼミに出ないで、マスプロ授業のみで卒業する学生も多いらしいが)の経営の論理をまざまざと感じるのである。

 たとえ一流大学でも、マスプロでしか授業に出れないのであれば、それは「受動の教室」である。

 それならば地方の三流国立大学でもゼミナール形式の「能動の授業」に出た人間の方が、遥かに優れていると私は思う。

 ゼミナールは全員参加型の授業であるが、マスプロは全員聴講型である。

 また、4〜5人に研究者が話す内容と、100人に話す内容では、後者のほうが概括的な質の落ちるないようになる。それは、全体の水準に合わせるため、内容を掘り下げられないことから生じるものである。

 そのため、「能動」と「受動」の授業を見た場合、「受動」の人間は「自ら考える」ことを欠落したまま卒業しかねない。



 教育費などや防衛費などは、すべて税金である。

 我々は、自らの教育機会を守るためにも、後世の代の教育機会を保障するためにも、教育のあり方をよく考えてみるべきではないだろうか。

 自らの国のことも法律も、全てお役所・エリート任せの「大衆」であるのは、非常に不幸なことではないだろうか。


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