< 第 一 次 世 界 大 戦 は 何 故 起 こ っ た か ? >

 

1・前置き、第一次大戦とは

 

 一般に第一次世界大戦は、三国同盟と(むろん、イタリアの問題を考慮すれば、これは独墺同盟といえるが)三国協商の帝国主義国間、ヨーロッパ列強の本格的な近代戦争といえる。また、総力戦と大量殺戮兵器の登場により、前線にも銃後の生活にも多大な影響と打撃を与えた初の大戦ともいえ、かつ列強植民地の動員に伴い世界中を巻き込んだ、文字どおりの世界大戦といえる。

 1914年6月28日の、サラェヴォ事件を契機に世界大戦になるとは、列強の誰もが予想だにしないことであった。しかし、その事件が一ヵ月後のセルビア戦、そして汎スラブ主義からセルビアを支持するロシア帝国との開戦。そして、ドイツの先制攻撃を期した対フランス宣戦、三国協商のイギリスの参戦。誰もが短期決戦と信じた戦いは、マルヌの戦いにおけるドイツのシュリーフェン作戦の挫折、続く塹壕戦で思わぬ長期化を迎え、各国の植民地への動員、海上封鎖を破ろうと図るドイツ潜水艦隊の活動。そして、ロシア革命によるロシア帝国崩壊、戦線離脱。アメリカの対ドイツ宣戦。そして、オーストリア・ハンガリーの革命、続くドイツ革命により、ついに1918年末に同盟側の敗北という形で幕を降ろすのである。

 しかし、第一次世界大戦は、ただの民族意識の高まりや、植民地の獲得がそれを引き起こしたとはいい切れない側面がある。経済・内政・国家指導層の誤謬など様々な要因が蓄積され、特にドイツに顕著だが、それを統御しきれなくなってきた側面が非常に多い。それを、特に大戦に至る過程に大きく影響したと考えられる、イギリス、ドイツ、フランスの三ヶ国から考える。

 

2・イギリスのパクス・ブリタニカとその挫折(1841〜1900年代初頭)

 

 イギリスは、1757年のプラッシーの戦いで、フランスをインドから駆逐し、1763年にパリ条約で北米大陸をもフランスから奪うと、海外植民地活動において自分たちを脅かす国はもはや皆無といっても等しい状態になった。1783年アメリカ合衆国の独立はあったものの、順調に工業生産力を向上させ、19世紀半ばには「世界の工場」と呼ばれるまでに至った。

 1841年は、そうしたイギリスにとってまさに「パクス・ブリタニカ」の頂点を味わった年であった。この時期、フランスとロシアにたいしトルコ帝国とエジプトの領土を巡り、イギリスは開戦ギリギリの状態に至ったが、フランスとロシアに戦争の脅しをかけ屈伏させ、ロンドンにおいて五国海峡協定を締結し、最大の成果としてボスフォラス・ダーダネルス海峡を中立化させ、ロシアの南下政策を挫折させた。同時に、中国に対してはアヘン戦争を引き起こし、屈伏させた。さらに、カナダ国境を巡る対立に端を発した「マクラウド事件」の英米住民の紛争におけるアメリカ国内の裁判に干渉し、カナダ人が処刑された場合の対処としてアメリカに宣戦を布告すると脅しをかけ、アメリカ世論を沈黙させ、屈伏させたのである。

 豊富な国力と軍事力を背景に、欧米列強に対し武力による圧力を同時にかけ、かつ中国へも遠征する強大な力に及ぶ国は無かったのである。

 しかし、南北戦争後のアメリカの躍進はすさまじい勢いで進んだのである。ドイツも統一後に大国を目指して急速に発展しつつあった。特にアメリカは、1890年代半ばに入り、突如として世界への進出を開始する。1890年には世界のトップ12にすら届かない海軍力だったのが、10年の後には世界3位にまで躍進したのである。それは、世界帝国イギリスへの対抗の意志の表れでもあった。

 1895年、南米ベネズエラと英領ギニアに国境紛争が勃発したさい、アメリカはモンロー宣言による不介入を訴えたが、イギリス首相ソールズベリーはモンロー宣言に反対意志を表明した。これに対し、アメリカは戦争も辞さない態度を示したため、英米戦争の危機が迫ったのである。

 しかし、イギリスはアメリカに譲歩した。要因はドイツであった。南アフリカでセシル・ローズがボーア人を征服しようと侵入を図って撃退されたことに、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世がトランスヴァール共和国大統領クリューガーに祝電を打ち、支持を表明したのである。この事はドイツの脅威をイギリスに感じさせる出来事となった。アメリカかドイツかそのいずれの脅威を選択するかを迫られるときが来ることを、イギリスは感じたのである。

 ここに至って、ソールズベリーは対米戦の危機を回避するためモンロー宣言を受け入れたのである。かつては、欧米列強を同時に相手にしても譲歩をせずにきたイギリスが、自分たちを遥かに上回る国力を付けつつあるアメリカと、重化学工業などにおいて強大になりつつあるドイツをもはや同時には相手にできない現実を受け入れなければならないときがやってきたのである。

 しかし、その後のアメリカへの譲歩は過剰であり、かつ性急すぎた。

 1901年にはパナマ運河を全てアメリカに委ね、さらに、イギリス臣民のカナダ人の要求を高圧的に抑え、アラスカ国境問題で大幅に譲歩し、米西戦争後のアメリカの領土獲得も好意的に容認し、1907年にはカナダのハリファックス軍港から前面撤退した。これは、イギリスがアメリカへの譲歩のために全米州を捨て去る意志を表明したものだった。

 この全ての譲歩は、ドイツへの脅威に対抗するためであった。しかし、その事はイギリスを自分自身でも制御できない外交プロセスへと歩ませることになる。

 各植民地から軍隊をヨーロッパに集結させ、ドイツを敵として、フランスやロシアとの協力関係を一層強化していくことになった。こうしてイギリスは対ドイツ譲歩の望みを完全に捨て去ったのである。

 

3・イギリスの戦略的失策と第一次大戦へ至る経緯

 

 イギリスは、ドイツの脅威をとにかく過敏に捉えすぎた。確かに、ヴィルヘルム2世時代におけるドイツの挑発的行為、膨張政策は無視しえないものではあった。しかし、イギリスの戦略的な失策は、ドイツとの共存の可能性を早々に捨て去ってしまったこと、ヨーロッパ世界の勢力均衡に余りにこだわりすぎ、ドイツの膨張を三国協商に見られるような包囲体制で抑えこもうとし、却ってその包囲を抜け出そうと試みるドイツに、タンジール事件やアガディール事件などを引き起こさせ、ドイツとの危機を生み出す悪循環のプロセスに陥ってしまったことである。

 イギリス自体は、パクス・ブリタニカの繁栄を終え、衰退へと向かいつつあった。工業生産ではアメリカとドイツに追い抜かれ、軍事力の強化を図るための軍事予算の拡張は、膨大な支出をイギリス国家に要求し、しかし、その財源を得てかつ国力の拡張、帝国の再編成を行なうとなると、それにもまた膨大な財政を必要とした。当時のイギリス財政は黒字基調であり、決してその社会改革に向けた支出は不可能ではなかったけれども、政治家は赤字財政を作り出してはいけないという強迫観念にとらわれていた。そして、それまでの体制を守りぬく事以外考えられなくなっていた。巨大国家が衰退に直面したときの末期症状ともいうべきものが、すでにこの時期のイギリスには表れつつあった。

 そして、問題の本質から目を逸らした時、別の解決策を模索し始める。その時イギリスが採った策が、過去への回帰であった。つまり、ヨーロッパの勢力均衡である。

 確かに、本拠地に近い脅威は意識されやすいが、その反応は過敏すぎた。イギリスはその世界帝国的な性格から、その本質はグローバル的なものであったのにもかかわらず、ヨーロッパというちょっとした計算違いでも大戦争に繋がりかねない列強の本拠地に、その戦力を集中配備したのは明らかな戦略ミスであった。

 アメリカにしろ、ドイツにしろ、彼らのイギリスに対する挑戦の本質は、世界的な経済的進出ないしは、すでに分割された地域の門戸開放であり、自分たちが世界経済の主役たらんとするところにあった。

 しかし、イギリスはそこから目を逸らし、頑ななまでにドイツ包囲網を締め上げ、さらにヨーロッパへの戦力集中のミスを犯した。その世界的な性質を無視し、あえてヨーロッパという危険で狭い空間に巨大な生産力を集中したこと、ドイツ主敵の視野狭窄に陥り、イギリスの誤った均衡政策が世界大戦を引き起こしていったともいえるかもしれない。

 

 

 

 

4・ビスマルクがドイツ人に残した危険な方策

 

 ビスマルクは、ユンカーと新興工業家、小作人や労働者などの対立のため複雑な国家事情を抱えるドイツを、その双方のために複雑なバランスをもって統治することを求められた。彼は3度の戦争(1864・66・70年)を起こしたが、いずれも小ドイツ主義とドイツ統一のためには必要な戦争であり、それ以上は彼が戦争を起こそうとはせず、ひたすら植民地の拡大を行なわず、フランスの復讐を恐れ、列強との強調体制を図ったことからも、彼自身はドイツを競争の火中から外し、国力の増強を図ろうとしただけなのが窺える。

 しかし、彼はその独裁的、冷酷な政治手段から、決して支持が強かったわけではない。進歩主義者、中央党、社会民主党は彼の敵であった。そういった政党からの要求に応えることは次第に難しくなっていったし、産業家達はもっと積極的に海外へ自分たちの膨張する資本を拡大したかったので、ビスマルクの消極的な領土政策は歯痒かったし、しかし、ユンカーからすれば国際的な強調を図り、特にロシアと接近することは安価な穀物に自分たちが駆逐されることを意味したので、やはりビスマルクの体制には不満であった。

 ビスマルクがそうした国内をまとめ上げ、かつ自らの政治基盤を失わないために選んだ方策が「民族の危機」という訴えであった。

 1878年の総選挙で社会主義の及ぼす危険を訴え、そのため彼は、反カトリック法廃止や社会保障制度を組み込み、見事に成功を収めた。

 しかし、1880年代には、ビスマルクは民族国家の大義を出さなければならなかった。彼に言わせれば、どんな国家にも「真の危機」が起こるのであり、その際には「国民民族主義の統一」が求められる。しかし、これは明らかなビスマルクの政治的失敗の表れであった。この当時のドイツは、先にも述べた階級間対立、様々な階層の要求、社会民主党への弾圧の失敗など諸問題が複雑に絡み合う、内部の分裂危機が訪れていた。

 外国からの脅威は国内をまとめ上げるには絶好の共通項といえた。

 しかし、ビスマルクはそのスローガン「民族の危機」の危険についてまだ気付いてはいなかった。彼はこれまでに3度の戦争を「国家の安全のため」行なったことは、前述の通りである。しかし、今またドイツがかつてない危機に瀕しているのならば、今までの成功はなんだったのか。しかし、ドイツ人はビスマルクの成功を疑うわけにはいかなかった。そして、新たな危機が起こっているのであれば、安全は新しい戦争、領土の拡大の中に求められた。

 それが、かつては小ドイツ主義を掲げた国家が、大ドイツ主義へ走る瞬間であった。

 しかし、ビスマルクは彼自身帝国を拡大する気はなかった。故に、小ドイツ主義を守りぬこうとした。彼にとり重要なのは論争であり、報酬ではなかった。だから、1878年のベルリン会議で、イギリスが彼の方針を受け入れたのはむしろ彼にとり驚きであった。この方策によって、列強は総力戦の危機を避けられる手段を得つつも、領土を拡大する口実と方法を得たのである。この時、ドイツも植民地を手に入れたことはビスマルクにとり不必要な領土の獲得であった。その狭い土地自体は、ドイツに利益があったわけでもなかった。それは、ドイツが海外へ出ていくことを創りだしてしまったのである。彼は、とにかく国内と政治体制を維持するのに国家的な危機が欲しかっただけなのだ。

 1887年の帝国議会は新しい軍隊法案を拒絶し解散させられた。またしてもビスマルクは危機に瀕した祖国をスローガンに、広範な支持を集めるのに成功したからだ。しかし、これが彼の最後の勝利であり、結局複雑化した国内の特に階級対立は深刻で、彼はその解決には成功できなかった。しかし、その階級対立を民族国家の大義があいまいにしていた。すでに、彼の使い古したスローガンは、ドイツ人に染み込みすぎた。大ドイツと戦って体制を維持していく彼の政治は、結局大ドイツの達成によってしか生き残れない状態になった。ドイツは「脅威を与える国々を征服することで脅威を終わらせるべきだ」という彼の演説は、劇的な変化をドイツにもたらしていた。もはや、それを修復しようとしても遅きに失していた。

 安全と平和を求める彼の政策は、しかし、征服が唯一つの方法であるという考えを産み付けてしまった。これは、ビスマルクの最大の失策だったとしてもよいだろう。

 

5・ヴィルヘルム2世のドイツ。その膨張政策

 

 ヴィルヘルム2世は、ビスマルクと大きく原則を違える人物ではなかった。両者とも、その権威的政治体制の維持は全ての前提だった。ただ、違いは施策である。ビスマルクはカトリックと社会主義者を敵と見做し、ヴィルヘルム2世は全てのドイツ人は味方にし得ると考えていた。実際には、社会主義政党もカトリックも、帝国の代行機関に変容し得なかったが、ヴィルヘルム2世は全ドイツ人の皇帝たることに成功した。しかし、ヴィルヘルム2世がそこにとどまるならば問題はなかった。彼の最大の問題は、まさにその領土的野心と、ドイツの力への過信、ビスマルクの慎重さ・警戒心を殆ど欠くことであった。

 ドイツの内部の話に切り替えるが、ドイツでは農業家は、各国の安い農作物に打撃を受け、ドイツは彼らに高関税を初めとする手厚い保護を行なわなければならなかった。同時に、工業家もカルテルを承認すること以上を国家に求めた。彼らの鉄鋼生産はイギリスを超え、自分たちの成功に危険を感じた彼らは、その増大する生産物の販路を見いださなければなかった。しかし、社会革命無しには、もはやドイツ国内に現状以上の販路は見いだせず、その販路を帝国に要求した。帝国はその販路を海外へ見いださなければならなかった。そのためドイツは、外国人に製品を売り付けるためには、特権と植民地を手に入れ、ドイツの権力を行使しなくてはならなかった。 しかし、話はそこには止まらない。ドイツの知識人は過去の戦争における栄光を帝国に要求した。そのため、汎ゲルマン主義、帝国の権利を主張する協会を(海軍連盟や汎ゲルマン連盟)創設した。

 その中で、宰相ビューロウは、世界政策を唱え、ドイツの進出を訴えたが、彼らは外国と衝突する時は政策を取り下げ、また復活させるという矛盾した政策を行なった。

 そのビューロウとともに世界政策の責任を担ったのが、内閣副議長ミクヴェルと海軍長官ティルピッツであった。

 ミクヴェルは、ユンカーに対する高関税と財政優遇で彼らを味方にするのが仕事であった。そのいずれも民族国家的な口実が設けられた。「農業保護は戦時に帝国を自活ならしめんとする」こと、「課税の拡大拒否は、ユンカーが進出するポーランド人に対し、国家の大義を防衛するため」であった。もちろん、ユンカーはポーランド人を労働力に使っているから、これは甚だ矛盾したことではあるが、とにかくにも、ミクヴェルの政策はこうした保守主義者を味方にした。

 ティルピッツは、もう一方の重工業を満足させる仕事に従事した。それは、ドイツ帝国の大艦隊を建設するという建艦事業である。

 これは、もっともドイツの進出野望と矛盾を抱えた精神構造を表現したものであると私は考えている。というのは、艦隊の建設には思想がある。海外植民地を拡大・防衛するなら、そのためには遠洋航海に耐え得る艦隊を建造し、本国の近海防衛ならば、沿岸保塁と商船が必要である。しかし、ドイツ艦隊にはそれらの考えは全く無く、またそのように建造されなかった。膠州やサモアの獲得は、その防衛海軍の必要を訴える点で、建艦の理由に叫ばれたが、実際のドイツ海軍は高速用で、北海に限られた航海距離しか持たない、純粋な攻撃兵器であった。もちろん、イギリスに対する攻撃計画はなかったが、イギリスがそのように考えて、警戒したのも無理はない。その海軍の真の目的は、帝国自身が、重工業の保障者であり、その大量の経済力の吸収を保障することの表明であった。それは、ただただ国際摩擦を不要に生み出し、かつ戦時には何の役にも立たない、ただドイツを戦争へと導く運命を持ち、ドイツ帝国の崩壊とともに消えていく運命だったのである。

 造船と農業はリンクされ、造船費用の増加は、農業保護の増加も意味した。これは、確かに互いに不信感を抱く勢力を抱き込むにはうまい手ではあった。しかし、これがドイツの直接税で払われれば問題は無かった。それはすべて借金であった。最後は外国人の負担が支払う高価な武装クレジットであった。というよりも、最後に1871年の勝利の時のように(独仏戦争のフランスは50億金フランの賠償を払った)、しかし、より巨大な賠償を取り上げなければ、そのために戦争に勝利しなければドイツの財政は無意味になっていたのである。

 しかし、ドイツが直接的な危機に瀕したのは、アルヘシラス会議で譲歩しなければならなかったことである。ドイツははじめて威嚇に失敗し、しかも、イギリスやフランス、ロシアは結束を固める結果となった。結局2度のモロッコ危機は世界政策の危機であった。しかも、ドイツ指導層は戦争を望まなかったし、大衆も栄光あるドイツを求めこそすれ、戦争は望まなかった。ユンカーも工業家も自分たちが破滅するかもしれない全面戦争は反対だった。将軍達は戦争を望んだが、展望は何一つ無かった。この時点で、ドイツはどうしようもない方向へ、しかも誰も舵を採るものはいない状態で、ただ進み続けていた。オーストリア外相ベルヒトルトが、当時の宰相ベートマンと参謀総長モルトケから矛盾した電報を受け取り、「ベルリンで統治しているのはだれなのだ」と言ったその中に当時のドイツが表れている。

 1914年の事件はこれまでにない危機をドイツに押しつけた。それまでの危機は少なくとも、ドイツが意図的に行なったものだから、押しつけだ。これは、ドイツに次のように問い掛ける死活問題であった。オーストリア・ハンガリー帝国のハプスブルク家はすでにビスマルクに破れ去った際、行動の自由を失い、ドイツの後押しもありバルカンへ進出したが、その多民族的な性格はすでにハプスブルクを瓦解させつつあった。

 そこで起きたこの事件は(セルビアの一青年による暗殺事件)、スラブ民族の手にオーストリアを任せ、ドイツは後退するのか、もしくはドイツはオーストリア・ハンガリーを支援し、前進するかの二者択一を迫っていた。

 この問題は重要である。というのは、ハプスブルク家が存続することが小ドイツには欠かせないことであったからだ。もし、ハプスブルクが崩壊すれば大ドイツしか選択には残されない。もしそうなれば列強全てを敵に回し、ドイツ人の生活圏を拡大するために全面戦争になり、ドイツの敗北は決定的であった。

 ドイツにもし、オーストリアからバルカン、東ヨーロッパ全てを手放す意志があれば、戦争は回避できたかもしれないが、そのようなことは到底できるはずもない選択であった。

 だから、1914年の事件は、それ自体が世界大戦になると誰もが予想してはいなかったが、しかし、世界大戦へ至る必然の過程であった。つまり、セルビアでの事件は、ハプスブルク家そのものの体制が崩壊しつつあることを、明白なものにしていたのである。故に、ドイツの進む方向は大ドイツ主義であった。

 軍備は年々拡張されており、実質的には全ドイツ主義は、軍国主義に置き変わっていた。静的な政策を望んだユンカーも戦争に賛成した。資本家は経済的浸透でヨーロッパ支配を試みたが、軍の暴力で目的を達することに同意したのである。

 それだけでない、民衆の側も戦争に賛同していたのである。社会民主党は、ロシアの絶対主義に対する防衛を唱え、ドイツの労働階級は、その工業の膨張が自分たちを守り、それはヨーロッパの征服がなければ、いずれ破壊されると信じていた。

 民衆は、危機に瀕した祖国という、ビスマルクが使い古し、その後も扇動に利用されたスローガンにまたしてものったのである。

 しかも、戦争への見通しも甘すぎた。せいぜい数週間の戦争で大した犠牲も出さずに終わる。そう誰もが戦争の見通しを立てていた。工業化の進んだ国々での戦争が、はかり知れない犠牲を生み、総力戦になると誰も考えなかった。

 さらに、もし、ここで戦争を起こさなければ、ドイツの負債はそのままであり、経済的にも膨張は不可になっただろうし、それはスラブ人の解放運動を阻止することを不可能にしてしまう。そのようなことは精神的にも不可能であった。それが世界政策の放棄と、ドイツの自信の崩壊を意味してしまうからだ。

 ドイツが拡大しようとしたとき、その動きを絶対に封じ込めようとした動きは、却ってドイツのそういった複雑な問題のはけ口をなくし、より複雑化させ、ドイツに戦争以外の道を閉ざしてしまう危険な試みであった。そのドイツの内実にイギリスを初めとした諸国が気付きえなかったことは、戦争回避を誰もが心の底では考えながら、しかし、戦争以外にとる方策のないところに突き進んだといえる。そうした意味では、ドイツのみならず、列強全てに戦争責任があったといえるが、いずれにしても、帝国主義に入り、植民地の争奪が始まった時点で、列強各国はいずれその拡大を止めれないかぎりは衝突する運命にあったといえるのではないかと、私は考える。                        

      

6・フランス高利貸し的帝国主義とモロッコ危機が再発した愛国主義

 

 フランスの帝国主義はイギリスのそれと比べて、はっきりとした違いを見ることが出来る。それは、イギリスがインドに端的に見られるように、生産活動の循環サイクルの一環として活用したのに対し(当初の、原料を植民地より吸収し、製品を売り付ける段階から、資本投下でプランテーション栽培を始めたことも、全て彼らの経済体制の一環)、フランスのそれは、高利貸し帝国主義的性格を帯びたものである。それは、以下に挙げる数値が端的にかつ明瞭にそのことを物語る。イギリスの資本輸出の中で、植民地への投下はその47.3パーセントにも上るのに対し、フランスのそれは8.8パーセントに過ぎない(1914年時点)。

 フランスにとっての植民地は、将来的には搾取と経済活動のための地域であったかもしれないが、この時点においてそれはむしろ、イギリスやドイツの領土的拡大を阻止するという、戦略的見解からの征服であったことのほうが、より容易に頷けるように思える。

 むしろこの時期のフランスは、東欧諸国、とりわけロシアへの資本投下が多い。約500億フランの投資残高(1914年)の内、約4分の1がロシアへの輸出である。フランス国債の利率は1912年には3.41パーセントだったが、外国債の平均は4.75パーセントの高率だった。

 さて、このような性格を持つフランスは、ファショダ事件以前はアフリカ分割の観点でイギリスと対抗関係にあったが、しかし、ドイツとはビスマルクのフランス孤立化外交の行使もあり、アルザス・ロレーヌの問題から、その対立はさらに深刻であった。そのフランスが、露骨な建艦競争や、領土拡張、祖国の危機(ほとんどは欺瞞であり、ドイツ国民をつなぎ止めるためのスローガンに過ぎなかったが、イギリスはその点に気付けなかった)を訴え、盛んにイギリスを挑発するヴィルヘルム2世のドイツに警戒を抱いてはいたが、クリューガー祝電を期に、それはイギリスに対ドイツ包囲体制というきわめて危険な体制を採らせた。この状況を踏まえたフランスは、ファショダ事件でイギリスに譲歩し、1904年には英仏協商を締結するに至った。平行してロシアとの関係を強化しつつも、イギリスとロシアの関係改善にも尽力し、三国協商体制の成立強化に努めた。

 それだけではなかった。フランスは、三国同盟からのイタリアの引抜きを図ったり、アフリカ、特にモロッコの権益を守るために、ヨーロッパ列強との間に、対ドイツ協力網を張り巡らせていった。

 これが、ドイツとの関係に悪影響を与えないはずがなく、両国の摩擦は次第に悪化していった。その最初の摩擦が、2回に渡るモロッコ事件であった。

 2回とも、ドイツは期待したほどの権益を手に入れられず、国際的にも孤立して、逆に国内に反フランス感情を醸成させていった。フランスにおいては反ドイツ感情が高まり、ナショナリズムが高まりを見せた。そして、英仏関係は緊密化され、列強間の緊張を高めていった。

 フランスでのナショナリズムの高揚は、モロッコ事件の対処に不満を抱く人間を増大させ、内閣は辞任させられ、代わりにポワンカレが、「愛国者」として登場し、国民の調停を行なった。彼自身はロレーヌの出身であり、また、対ドイツ強硬派であった。彼自身の登場が、まさにフランスが戦争回避の方向を完全に捨て去ったことを表した。反戦の象徴だったジョレスは少数派で、常に攻撃の対象であった。フランス全土でナショナリズムを高揚するキャンペーンが実施され、特に祝日として設けられた「ジャンヌ・ダルクの日」はその最たるものであった。

 1913年の大統領戦でポワンカレは勝利した。ナショナリズムの高揚の中にあって、彼は対ドイツ復讐を貫き通す大統領として、国民に歓迎されたのである。

 彼がその後とった方策は、もはや戦争への歯車をひた押しするものであった。彼はバルカン戦争を見て、将来のドイツとの戦いを避けられないと考え、協商関係の強化に努め、国民総動員の体制を固め始めた。フランスでは盛んに対ドイツ復讐が叫ばれ、ナショナリズムは高揚し、もはやドイツとの関係は修復不能になっていた。ジョレスら反戦派は、彼らと激しい応酬をかわした。1914年には、徴兵制の延期が最大の論点として戦われ、延長反対の側が勝った。フランス国内はまだ近くに戦争が起きることを想定していなかったのである。結局、戦時体制の整備を急ぐことが決議され、その実現に努力がなされた。

 フランスがこのような緊張した情勢にあった中、セルビアでの事件が起こったのである。この時、フランス首脳はロシアへ向かっており、その関係強化に力を入れていた。ジョレスはドイツ社会民主党との友好ふまえ、戦争反対を叫び続けていた。

 しかし、誰もが戦争になるまいと思っていた一つの事件は、ドイツの強力な後押しを受けたオーストリアの強行姿勢により、バルカンの情勢は急速に緊迫していくのである。

 

7・以上を踏まえて考察

 

 以上、イギリス、フランス、ドイツの三国に焦点を絞り、第一次世界大戦が何故起こったかを考察してきた。以下は、そのまとめを述べる。

 結局、第一次世界大戦の本質は、最も端的に記すなら、列強が互いに譲歩を仕切れなくなったことが挙げられる。しかし、事はそれほど単純ではない。イギリスにおいては、猛烈な勢いで迫る新興国家アメリカとドイツに脅え、自国の衰退を自覚しつつも、社会改革という健全な手段によらず、旧来的な、以前にイギリスが成功したヨーロッパの均衡に逆行した。それは、ドイツの進出の真意や本質を見抜くことの無かったが故の、危険なまでのヨーロッパ軍備の強化と、異常ともいえる対ドイツ反応、ドイツ包囲網であり、ヨーロッパ本土という、国民のナショナリズムに訴える宣伝をより深刻にしえる、かつ、危険な空間に立ち戻る行為であった。ドイツにおいては、その内部に抱えた階級対立を解決し得ず、国民をつなぎ止めるのに、祖国の危機を自分たちの手で作り上げた。同時に、各階級に応えるための、無意味なまでの建艦行為と、列強への挑発を繰り広げた。ドイツは、社会改革に乗り出すにも、ユンカーと工業家、あるいは彼らに雇われる労働者たちの対立は余りに深刻であり、それを克服するにはあまりに困難が過ぎた。その改革自体が帝国を崩壊に導くことは確実といえた。さらに、小ドイツ主義を守るにはオーストリアを支持しなくてはならず、複雑な民族構成のオーストリアに、バルカン半島へ多民族の征服を援助したことは、ヴィルヘルム2世たちは望まなかった汎ゲルマン主義、そして大ドイツ主義に進まなくては小ドイツ主義を維持できないという、そのジレンマに接することになってしまった。フランスは、植民地の分割を阻止しようと領土の拡張を図り、それはイギリスとの協調路線、ひいてはドイツとの摩擦、その摩擦に伴い対ドイツ感情が悪化し、政府もそれを煽り立てる方向へと進み、ドイツとの戦争に備えていた。

 以上の状況を踏まえた場合、どのような方向も戦争以外に抜け出る道はなかったと考える。結局、どの国家も、自国の改革からは目を逸らし、新しい時代を見ようとせず、ひたすら仮想敵国を創っていくことに没頭し、全ての解決策を戦争にしか見いださないように仕向けてしまったのである。

 この時期、イギリスが社会改革へ力を向け各国との話し合い、宥和を求める動きに出れば(もちろん、それは抑圧の均衡ではなく、協調体制の均衡という動きである)、ドイツが、極端なナショナリズムを使わず、各国の状況をよく観察した上での外交政策と自由貿易にその活路を見いだせれば(もちろんこれは、ユンカーの反発が出ることが考えられるのだが、あと、外交政策には、フランスへのアルザス・ロレーヌの返還に応じる姿勢も必要である)、フランスがもっとドイツと協調し得る道も模索できたならば、もしかしたら第一次世界大戦は避けられたかもしれない。しかし、各国とも、その肝心の社会改革路線を見いだすことはできなかった。結果は、第一次大戦と二次大戦で、その体制が清算されていくのを待つ以外にはなかったのである。

 自分なりの私見では、この大戦は、人類の国家に対する信仰というのが、実は癌なのではないかというものである。本来国家というものは、集団が生きていく上で、互いの補完関係を効率よくするための道具にすぎない。その操り方を心得ている少数の人間が、大多数の人間を操り、支配しているのではないか、このレポートを書きつつそう思う次第である。

 

8・参考図書

 

・大英帝国衰亡史 PHP研究所 ()中西輝政

・近代ドイツの辿った道 財団法人名古屋大学出版会 ()AJP・テイラー ()井口省吾

・世界歴史大全フランス史3 19世紀なかば〜現在 株式会社山川出版社 ()柴田三千雄・樺山紘一・福井憲彦

・帝国主義ノ時代18 講談社 ()西川正雄・南塚信吾

                  


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