<テーマ>

天保期(1830−43)末期、清国におけるアヘン戦争の幕政への海防その他における影響

 

 一、はじめに

私は、天保期末期に起こったアヘン戦争(1840−42年)の衝撃が、幕藩体制化の日本にどのような影響をおよぼしたのか、それが支配者層に与えたインパクトに興味を持ち、このテーマを選んだ。

 幕藩体制は、藩という個々の独立国家群とはいわないが、少なくとも個々に利害関係を持ち、それらの領主群が徳川幕府の下に統一されていた体制化に見える。だとすれば、アヘン戦争の認識と国際的な視野の違いも多様なはずであり、そのような衝撃は、ペリー来航以前に幕藩体制の内部に亀裂を顕在化させたのではないか、それがやがて尊王攘夷運動を巡る各藩の思想対立につながったのではないかと認識した。

 よって、本論では、支配者層である大名のアヘン戦争観を中心に、幕府の政策転換にアプローチしようと考える。

 

 二、大名のアヘン戦争観

 幕府は、時代が下ってペリー来航時(1853年)、幕臣に意見の上申を命じたが、その中からアヘン戦争観を見ることができる。小野正雄によれば(注1)、その認識は大きく三つに分かれるという。それを以下に示す。

(1)通商拒絶論

 これは、清国におけるアヘン戦争は、通商の結果であり、また、通商は国の統制を妨げ、国力の低下を招くという認識である。長州藩、土佐藩、桑名藩がこのような趣旨の意見書を提出している。これは、全く列強の軍事力の優勢を認識していないが、同じ拒絶論でも、水戸藩の徳川斉昭は、「戦ひは難く和は易く」と、アメリカとの戦いには勝ち目がないことを認めている。

(2)戦争回避論

 これは、通商の拒絶は戦争になる。かつ、日本の軍事力では、清国が圧倒的な惨敗を喫したことから、列強と戦っても勝ち目がない。よって、時間を稼ぎつつ軍備を整え、戦える段階で鎖国に戻すというものである。薩摩藩、出石藩、彦根藩がこのような意見書を提出している。

(3)通商許容論

 通商許容論は、特に洋学の盛んな藩の意見であり、佐倉藩、津山藩、中津藩、津藩、飫肥藩、美作藩がこの類の意見書を提出している。内容は、交易はすでに世界のシステムとなっており、それを拒絶することは戦端を開くことになりかねないこと、軍事力では勝ち目の無いこと、よって開国すべきであるというものである。そして交易によって優れた軍事技術を導入し、海防に当てるべきという案である。

 これらが、当時のおおまかな大名の認識である。総括すれば、一部の意見を除けば、軍事的な劣勢を認め、時間を稼ぐことで軍備を強化するというものであり、その上で打払いをするべきというものであった。ただ、積極的に開国を考える勢力も出ていたことは、興味深く、幕藩体制はすでに相当の認識の違いを抱えていたということであろう。これは、それ以前のアヘン戦争を受けての水野忠邦たち幕僚の戦争認識にも相当程度当てはめられる図式ではないだろうか。

 

 三、幕僚の戦争認識

 では、政治的なトップにいる幕府閣僚たちは、どのような戦争認識をしていたのだろうか。上記の大名たちのようにその認識は分かれていたが、その状況はやや異なる。というのは、当時海外情報は幕府が一手に握っていたからである。アヘン戦争の情報は、「和蘭風説書」「唐風説書」によるもので、前者はオランダがもたらすイギリスと清国の政策であり、バイアスや誤報はあっても、事実を相当ついている客観的な情報源といっていい。後者は、リアルタイムに戦争を伝える中国側からの情報だが、その内容はやや正確さを欠くものの、イギリスの軍事的な強大さを幕僚に印象付けたのは間違いない。このことの評定所審議が極秘にもかかわらず漏洩し、そのことが蘭学者たちの幕政非難につながるが、彼らに伝わった情報は、事情の正確さには欠いていた。

 よって、幕府が取った政策は、ある意味で現実を認識した政策であったといえる。天保薪水令(1842年)は、アヘン戦争の終結を告げる南京条約の締結一日前という時期に出されたが、これは、戦争と国際状況の分析が集積した結果と言えるだろう。これは、とにかく外国船は打払わなければならないという、それまでの政策とは一線を画す、画期的な政策であった。

 それは、幕僚たちが、相当海外情勢に通じていたこと。それが、彼らにある意味で「鎖国」を破る可能性のある天保薪水令を決定させたと考えられ、彼らの戦争認識は、列強、特にイギリスに対する脅威論であったと考えられる。それは、隣国清の戦争は対岸の火事で済まない事情があったからであり、かつ打払い令で起きた事件の認識が、清国のアヘン戦争と結びつき、戦争を回避することを念頭に置かざるをえないほど、日本の軍事力は貧弱であったという認識からであろう。

 

四、アヘン戦争と対外関係の関連認識

では、上記の幕僚の政策転換は、単にアヘン戦争があったからという単純な理由からなのか。それには、前提となる二つの事情が、彼らの頭の中で日本と清国を重ねさせるという状況があったからである。

ひとつは、日本の対外政策の四つの口(松前=アイヌ、対馬=朝鮮、長崎=中国・オランダ、琉球)における状況がある。

 すでに、アヘン戦争前後から、ロシア・イギリス・フランス・後にアメリカが日本近海へ進出していた。その危機意識は打払い令に結びつくが、この時に微妙な関係を示したのが琉球王国である。琉球は、中国と幕府(表向きは独立国。内実は薩摩藩の支配)に両属するという複雑な関係にあった。イギリスやフランス船は、琉球に開国要求を行い、幕府は国際紛争に巻き込まれる恐れから、これを外国のこととして、黙認せざるを得なかった。開国要求はアヘン戦争後であるから、本稿のテーマから少々脱線するのだが、あえてここで琉球を付記するのは、以前から薩摩藩は琉球への救済という口実でさらなる交易拡張を狙っていた。その物品は日本国内に流通することは認められていた。この時点において、「鎖国」を建前で主張しつつも、すでに薩摩の例のように内実は崩壊に向かっているという現実は、幕府に少なからず影響を与えていたと考えられるし、なによりも、すぐ近くにすでに異国船が来航しており、日本へ来航する数が増えることはすでに予測され、その対策は、果たして打払いの敢行で済まされる問題ではないのではないかと認識しだしていても不思議ではない。ここに、天保薪水令のような「鎖国」を破ることを将来において認めるような政策の検討の素地ができていたといってもいいのではないか。

 ふたつめは、直接的にアヘン戦争を日本の将来における危機に結びつけけたと思われる、1837年のモリソン号事件である。これは、江戸湾に現れたところを、砲撃で打払われたのだが、このモリソン号に関するオランダ情報は幕僚に問題を提起した。それは、(1)モリソン号は非武装船であった。(2)これは、日本人漂流民の送還目的で来航した。(3)よって、災害にあって、帰国できなくなった者を送還する船を、打払うことは道義に反することではないかという問題提起である。このことは、廻船でもって米を輸送しなければ成り立たない江戸にとっての大問題も絡む。つまり、船員に対する配慮が、ひいては江戸庶民の需要を満たすことになる。遭難した船員の帰国すら認めないことは幕府の威信にすら関わる問題である。

 しかし、この時点では、打払い令を実行しただけであり、その点では問題にはならなかった。それが問題となるのはアヘン戦争の勃発によってである。つまり、オランダ情報によると、モリソン号はイギリス船であるという。これは誤報で、実はアメリカ船なのだが、そのようなことは当時の幕府にわかるはずもなく、とにかく、アヘン戦争の当事者のイギリスを打払ったことが大問題となった。つまり、「非武装かつ漂流民送還」の「友好的」な船を有無を言わさず打払ったことは、もし、また打払うようなことがあれば、清国の二の舞となりかねない危険性を内包していたからである。

 これは、幕府のイギリスによる日本侵略の可能性を想起させ、そのため、無二打払令は危険である。だから、「天保九年モリソン到り通商を乞ふ…(中略)…海外の動静情實を思考し無謀打拂之得策に非らさるを悟り打拂冷を改め」(注2)という認識に到り、日本は外国に対して必要物資を供給するのだという方向性に誘導し、それが1842年の天保薪水令になったのである。

 

五、むすびにかえて

 ここまでのことを概括すると、幕藩体制というのは、厳密な「鎖国」に貫かれていなかったのではないかという疑問を提示する。それは、「鎖国」と言いつつも、幕僚は海外事情を詳細に知っていて、イギリスが清国と戦端を開く前から、戦争の可能性を知っていたし、彼らが南アフリカを制していたことなども認識していた。そして、四つの口での貿易。薩摩藩の琉球における密貿易と抜け荷の問題。これらの矛盾を内実に抱えつつ、建前の「鎖国」が直面したのが、アヘン戦争であり、その帰結の天保薪水令ではないのだろうか。それは、すなわちペリー来航まで貫かれる対外姿勢であり、以て開国へと至る道の先駆をなしたのではないか。

 つまり、結論として、アヘン戦争は、幕府の海外事情の認識と、打払い令の敢行という経験、異国船との接触による領土概念や危機意識が複合的に結び合い、「鎖国」の放棄に指向させ、開国の前提条件を作り上げるのみならず、ナショナリズムの形成に深く影響を及ぼしたのではないかと考えられるのである。

 

【注】

1、小野正雄「特論 大名のアヘン戦争認識」小野正雄は、幕臣でなく、大名の見解に依拠することで、個人的意見というよりも、より大きな藩全体の意見を抽出し、それによる当時の日本の認識を分析している。

2、勝安芳「開國起源」 これは『天保年間邦内之形勢下』よりの抜粋であるが、その次の『天保十三年壬寅七月廿三日』では、異国船でも困窮しているものには、薪水を提供し文化三年令の趣旨に戻ることを述べている。

 

<参考史料>

・勝安芳「開国起源 上・中・下巻」吉川半七 1893

 

<参考論文>

・木村直也「総論U 近世中・後期の国家と対外関係」(曽根勇二・木村直也編『新しい近世史2 国家と対外関係』新人物往来社 1996)

・横山伊徳「日本の開国と琉球」(上記文献内)

・小野正雄「特論 大名のアヘン戦争認識」(『岩波講座―日本通史 第15巻 近世5』岩波書店 1995)

・加藤祐三「黒船前後の世界」岩波書店 1985


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